『真剣―新陰流を創った男、上泉伊勢守信綱』
私にはこの分野の知識は全くないので、この作品の、どの部分が史実に基づいており、どの部分が作者の創作(想像)なのかの判断はつかないのですが、小説としてよくできていると思います。
新陰流が、どういう時代背景に、どういう経歴を経た人間によって生み出されたものかの、大枠が理解できました。
ひとつの伝統(流派)が形成され、継承されることの大変さを感じ、
今この時代に、その宝に触れることの有り難さを感じました。
また、自分自身の仕事に対する思いも新たにされ、良い刺激となりました。
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SF小説の醍醐味
『ゴルディアスの結び目』 小松 左京
このブログを面白がって読んで下さっている方にはオススメできる本だと思います。
読むのに、それほどの時間は掛かりません。なかなかのものです。
Kの教えについて
どなたかがクリシュナムルティについて書かれた文章が印象的だったので紹介してします。確か、2chにあるクリシュナムルティ関係のスレッドで採集したのだと思います。(霊基)
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山に登っている人がいます。
頂上に立つ人がいます。
登山者が、頂上の人に「あなたには世界はどう見えますか」と聞きます。
頂上の人は「世界は広く、美しい」と答えるでしょう。
ところが、じめじめとした森の中を歩いている登山者の耳には、
それは「抽象的な理想論」に聞こえます。
少なくとも、私の目の前の混乱を解決してはくれないではないか?
世界のどこがそんなに美しいというのか?
・・・そうした気分になるでしょう。
目に見えている景色が違うのですから、伝わるわけがないのです。
頂上の人は、結局のところ、頂上からの景色は、頂上に立たなければ分からないことを知っています。Kは随所でその意味のことを書いています。
Kもまぎらわしいことを云わず、「それは説くことはできません。ただ登りなさい(自分に何が起こっているかを見つめ、理解しなさい)」と云い続けてくれればいいのですが、、、
時々、ふっと答えてしまうのでしょうね。
彼にとっては区別がないので、見解を聞かれたら答えるのは自然なことなのですが、それはKから見た景色について語っているのであって、私達がその景色からKに同化することはできません。
Kの境涯を知りたければ、同じ場所に立たなければならず、そのためには見つめ、理解することです。
賊の空室に入るが如し
龍牙居遁(りゅうげきょとん)禅師という、中国唐代の名僧がいる。
曹洞宗の開祖である洞山良价の法を嗣いだ禅僧であり、臨済禅師との問答も残っていることは、少し禅に触れた人ならばご存じであろう。
江戸時代の禅籍である『鉄笛倒吹』(てってきとうすい)の第二十八則に「龍牙古休」の話がある。
「龍牙遁禅師、因みに僧問う、古人、箇の甚?(なに)を得て便ち休し去る。牙曰く、賊の空室に入るが如し」(龍牙遁禅師にある僧が質問した、「古人は一体なんの道理をを得て大安楽の境地に至ったのでしょうか」。龍牙が答えた、「ちょうど盗賊が空室に入ったようなものだ」。)
この僧の問いに対する風外禅師の、「汝、什?(なに)を得てか、恁?(いんも)に休せざる」(かくいうお前は、一体なにを得てそんなに心安らかならずに質問するのか)という下語(あぎょ、禅的ヤジ)が面白い。
これが下語の妙味である。
龍牙の「賊の空室に入るが如し」に対しては、風外は「ただおそらくこの僧はこの空室という宝を捨て去ることができないであろう」と下語している。
盗賊が空室に入ることが、どうして大安楽につながるのか。
また空室がどうして宝物といえるのか。
しかもこの宝を捨て去らねばならぬとは、一体どういうことか。
盗賊は部屋の中にはさぞかし素晴らしい宝物があるに相違ないと思って進入するのだが、しかし期待に反して何もない空き家であった。
修行に骨を折って悟れば必ずや目を見はるような境地に至るに相違ないと思いこんでいた者(盗人根性のある修行者)が、現に悟ってみれば、これといって所得はなく、本来無一物であることを知り、求め回る心がやんだのがちょうど同じようなことであると龍牙はいうのである。
この則に対する奥龍禅師の偈頌は格調高いものである。
「幾たびか剣刃上に之(ゆ)き、また曾て薄氷を履んで猜(うたが)う。入得すれば是れ空室、偸心(ちゅうしん)死して灰となる。
帰り来たって晨夕(しんせき)分に随って送れば、恰(あたか)も平地に徘徊を打するに似たり。清風明月、何の極まりか有らん。自家の宝蔵、ここに到って開く」(何度も剣の刃の上を歩くような苦難を重ね、また目指す境地をいろいろと推量して、薄氷を履む思いで疑った時節もあった。
だが、悟入してみれば、空き部屋に入ったようなもので、所得とすべき一物もない。
かくして、何とかして悟ってやろうなどという妄想分別は灰の如くに消え失せてしまった。
そうした境地になれば、ただ腹がへれば飯を食らい、疲れたら眠るという、何らの造作も計らいもない淡々とした毎日である。
悟ったならば思う存分に衆生済度をしようと思っていたが、悟ってみれば迷える衆生というのも見あたらない。
自分自身も本来無一物(空)という宝物であることが分かった。)
楽道庵ホームページ:禅と東洋の心「大安楽」より
論理的ジョーク
私は人種差別と黒人が大嫌いだ。
俺は白人どもと違って偏見を持たない。
世の中には三種類の人間が居る。
数を数えられる人間と数えられない人間だ。
健康のためなら死んでもいい。
命を粗末にするやつは俺がぶっ殺す。
人に死ねとか言う奴こそ死ねばいいのに。
他人の価値観許容できないなんて俺は認められない。
俺はAB型なんで占いなんか信じない。
神様、一生のお願いです。
この世のすべての宗教を無くしてください。
すいません、80円切手ください。 幾らですか?
「おーい、いま寝てる?」
「ああ、寝てるよ」
ネットで見かけた文章断片
聖書の「私が死に、あの方が栄えなくてはならない」という言葉の中にある「私」の部分だ。
この言葉が意味するところは、私=「低次の自己」は死に至らしめ、あの方=「みずからの本質=魂としての自己」をもっと表現して生きよ、ということである。
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わが「人生というグル」、もしくは宇宙は、そのために今回の体験をその大きなチャンスとして私にもたらした。
そう確信せざるを得ないような「人生と云うグル」の見えざる手(手厚い配慮&サポート)―もしくは宇宙の采配―を、私は無数に受け取り、実感し続けている。
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「死」は最大の喪失ではない。
もっとも悲しむべきことは、心と体が切り離されたまま、満たされない生を生き続けることである。
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信じやすい人々は、与えられるものの正邪善悪におかまいなく、常に進んで信じこみ、受け入れ、従おうとする。
信ずる精神は探究心とは違っており、それは公式や原理原則の限界を出られない。
それはちょうど柱につながれた動物のように、ロープの範囲でしか動きまわれないのである。
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「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい」 寺田寅彦
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不安を感じるのを止めましょう
私たちはいつでも不安を感じているものです。FEAR(不安)はFalse Evidence Appearing Real、間違った根拠が現実になってしまう、を表します。不安が起きるとき、自分自身に向かい「今、ひどいことが起きているんだ」と言い聞かせます。繰り返しこの嘘をつき続けるのです。しかし、不安というものは単に感情にすぎません。望めばいつでも手放せます。ですから、シンプルに手放す決意をしましょう。この瞬間にそう決めれば、既に消え始めているでしょう。「わたしにはできる、大丈夫だ」と落ち着き、振る舞える感覚を感じられるでしょう。これはどんな状況であっても、いつも可能なのです。
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自衛隊の生みの親である、吉田茂首相は、「平時には、自衛隊は無用の長物と国民から批判されるだろうが、それは日本が平和な証拠だから耐えて欲しい」と訓話したそうである。