論理的ジョーク

私は人種差別と黒人が大嫌いだ。

俺は白人どもと違って偏見を持たない。

世の中には三種類の人間が居る。
数を数えられる人間と数えられない人間だ。

健康のためなら死んでもいい。

命を粗末にするやつは俺がぶっ殺す。

人に死ねとか言う奴こそ死ねばいいのに。

他人の価値観許容できないなんて俺は認められない。

俺はAB型なんで占いなんか信じない。

神様、一生のお願いです。
この世のすべての宗教を無くしてください。

すいません、80円切手ください。 幾らですか?

「おーい、いま寝てる?」
「ああ、寝てるよ」

ネットで見かけた文章断片

聖書の「私が死に、あの方が栄えなくてはならない」という言葉の中にある「私」の部分だ。
この言葉が意味するところは、私=「低次の自己」は死に至らしめ、あの方=「みずからの本質=魂としての自己」をもっと表現して生きよ、ということである。
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わが「人生というグル」、もしくは宇宙は、そのために今回の体験をその大きなチャンスとして私にもたらした。
そう確信せざるを得ないような「人生と云うグル」の見えざる手(手厚い配慮&サポート)―もしくは宇宙の采配―を、私は無数に受け取り、実感し続けている。
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「死」は最大の喪失ではない。
もっとも悲しむべきことは、心と体が切り離されたまま、満たされない生を生き続けることである。
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信じやすい人々は、与えられるものの正邪善悪におかまいなく、常に進んで信じこみ、受け入れ、従おうとする。
信ずる精神は探究心とは違っており、それは公式や原理原則の限界を出られない。
それはちょうど柱につながれた動物のように、ロープの範囲でしか動きまわれないのである。
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「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい」 寺田寅彦
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不安を感じるのを止めましょう
私たちはいつでも不安を感じているものです。FEAR(不安)はFalse Evidence Appearing Real、間違った根拠が現実になってしまう、を表します。不安が起きるとき、自分自身に向かい「今、ひどいことが起きているんだ」と言い聞かせます。繰り返しこの嘘をつき続けるのです。しかし、不安というものは単に感情にすぎません。望めばいつでも手放せます。ですから、シンプルに手放す決意をしましょう。この瞬間にそう決めれば、既に消え始めているでしょう。「わたしにはできる、大丈夫だ」と落ち着き、振る舞える感覚を感じられるでしょう。これはどんな状況であっても、いつも可能なのです。
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自衛隊の生みの親である、吉田茂首相は、「平時には、自衛隊は無用の長物と国民から批判されるだろうが、それは日本が平和な証拠だから耐えて欲しい」と訓話したそうである。

無いものねだり(不満・怒り)と、あるもの探し(満足・感謝)

ないものねだりをするよりも、今(既に)あるもの(与えられているもの)に目を向け、
それに感謝する。
そのとき、人の心は磨かれ、人として成長し、その器は大きくなる。
決して、それは消極的な、弱い生き方ではない。
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生きることに大事なのは、計画性と即興性のバランス。
自分が進みたい方向性は誰にでもある。
でも、その計画したものにとらわれ過ぎず、
その場その場を即興で、臨機応変に歩んでいく。

気づきの言葉

真理は、事実、理路整然としたものであるが、人間の矮小な認識能力からすれば、真理は、矛盾を含んだ、理解を寄せ付けない「道なき荒野」として映るかもしれない。
世界や人生に、望まない納得のいかない理不尽な出来事が起こったとしても、地球上において時間と引力の支配を受けないものが存在しないように、あらゆる現象は、「例外なく」真理の支配を受けている。
毛筋ほども違わぬ。
現実こそが神である。
現実を生きてこそ、大切なことが体得されていく。
つまり、人間が、自分自身の身に起こった出来事に対して好き嫌いを言って、受け入れたり受け入れなかったりすることは間違った態度であり、「病気」である。
色々な予想外の理不尽な出来事が人生にあったにせよ、そうした「なりゆき」は、神が、神の目から見た成功へと、その人が成り行くようにと導いている結果であり、すべて神のご守護と感謝して受け入れることが求められるのである。
世界と人生に起こる出来事を、たとえそれがいかに理不尽で、納得のいかない種類のものであっても、すべて例外なく、「歓喜」で受け入れる。その心に、限りない慈悲が降り注ぐ。
悟り・覚醒・解脱を欲して、あれやこれやと行法を修することは、まことに結構なことではあるが、「これをすれば覚醒できる」という計画は、多くの場合、苦しい現実からの逃避(エゴ)であり、神仏の意思に反する在り方であり、人間のこうした浅薄な「はからい」も何もかもを捨てて、ただ、神仏と人生に全託(全面的な信頼)して、目の前のことを喜んで受け入れることが、実は覚醒への近道であり、真の信仰なのである。
あるがままの現実を通して、神仏の御意思を、いまここに、直接にいただく、いわゆる真理の直接体験が最も美しい。
いかに手痛い出来事が起ころうと、神の導きと喜び、受け入れ、さらに生き生きと生きることが、信仰である。
悟りとは、自分の好き嫌いを離れて、目の前の真理を受け入れることであり、覚醒や解脱とは、そうした心が極まって、雲が晴れたように、あらゆる葛藤が消滅したところで、不意に感じられる底知れぬ安堵と軽やかな喜悦である。

『ヨガの解剖学』

ヨガは本来、統合的な実践の文脈において行なわれるべきものであるのでしょうが、現在、断片化したかたちで流行っているように見えます。
ハタヨーガは、最も実践者が多いボディワークであると共に、
最も故障者の多いボディワークであるように思えます。
極めのポーズを作ることを重視して(目的指向)、そこまで行く運動の過程を軽視している(プロセス軽視)点、
言葉を変えれば「最大稼動範囲」を拡げることに目が向いて、
「最大使用範囲」(力の連動のある、使える範囲)の質をあげることにはあまり注意が向いていないように感じられます。
その結果、今まで使ってなかったからだのパーツの柔軟性(筋伸ばし)は進むのだけど、元々問題を持っていた、特に腰や首・肩の間違った(身体構造的に不適切な)使い方は修正されず、逆に、その間違いを強化して、痛めたりすることが多いように思われます。
この本は、ざっと眼を通した段階ですが、
それらの現在の国内のハタヨガも持つ問題に自覚的であるように思えます。
ヨガに真剣に取り組んでいる方にこそ、オススメしたいです。
また、動きのプロセスに重点を置いたヨガである(と理解しています)「胴体力」や、動きにおける気づきを重視するフェルデンクライス・メソッド(ATM)、外からの力(負荷)をかけることで、自身の身体の力の連動性・つながりをチェックすることができる刀禅の稽古などに触れてみることも、ヨガメインの方にオススメできます。
ヨガの解剖学: 中村尚人
◆ 補足
上で「プロセス軽視」「稼動域の拡大に目が向いている」と書いたのを見て、
真剣にヨガに取り組んでおられる方は反感(反論)を持たれたかも知れません。
ただ、私がこれまでに見たことのあるヨガ(DVDなど含む)は全て、力の連動が無いように見えます。
「力が繋がってないこと」の認識自体、力の繋がった感覚を実際に明らかに経験しない限りないですので、もし「自分たちのヨガは、それができている」と思われるのなら、ぜひ動画などを教えて欲しいです。
私自身、自分の動きが「力が繋がっておらず」「まったく使い物にならないのだ」と云うことは、胴体力、韓氏意拳、刀禅などに触れることで徐々に認識できてきたことで、それはかなりショックでした。そのショックは、現在でも稽古の度に感じさせられます。できている訳ではないです。
私は、本来(元々)ヨガは、そのような力のつながりを持って行なうべきものであり、力のつながりを明らかにさせるものであると認識しておりますので、今行なわれているヨガはおかしいんじゃないかな、と思っております。
まあ、つまり、「ヨガって本来、かなりスゴイ体系なんじゃないのかな」と思っていると云うことです。