本来無一物

ある方とのメールのなかで、
「梅雨入りしてから、ここのところ、荷物の整理などしています。要らない蔵書など全て売り払っております」と云う話しの流れのなかで「無一物」と云う言葉を使ったら、「そんなにお金に困っている状態なのですか?」との返信が来ました。
「無一文」と間違われたようです。
そう思われちゃう自分にも笑いましたが…

無一物中無尽蔵、花あり、月あり、楼台あり
むいちもつちゅうむじんぞう はなあり、つきあり、ろうだいあり
あるいは、
本来無一物 何れの処(ところ)にか塵埃(じんない)を惹(ひ)かん
の言葉もあります。
「無一文」を「無一物」に変える力量を持ちたいものです。

一日一語

七月一日
世界史は表から見れば「神曲」の展開―
そして之を裏がえせば、人類の「業」の無限流転といえよう。
されば之に対して何人が、絶対的正邪善悪をいう資格があろう。
 七月二日
この地上には、一切偶然というべきものはない。
外側から見れば偶然と見えるものも、
ひと度その内面にたち入って見れば、ことごとく絶対必然ということが分かる。
 七月三日
いかに痛苦な人生であろうとも、「生」を与えられたということほど大なる恩恵はこの地上にはない。
そしてこの点をハッキリと知らすのが、真の宗教というものであろう。
 七月四日
人はその一心だに決定すれば、如何なる環境に置かれようとも、何時かは必ず、道が開けてくるものである。
 七月五日
弱きと悪と愚かさとは、互に関連している。
けだし弱さとは一種の悪であって、弱き善人では駄目である。
また智慧の透徹していない人間は結局は弱い。
 七月六日
人間の偉さは才能の多少よりも、己に授かった天分を、生涯かけて出し尽くすか否かにあるといってよい。
 七月七日
自己の力を過信する者は、自らの力の限界を知らぬ。
そして力の限界が見えないとは、端的には、自己の死後が見えぬということでもあろう。
 七月八日
かにかくにひと世(よ)つらぬき生きて来し そのいや果てぞいのち賭けなむ
 七月九日
道元の高さにも到り得ず、親鸞の深さにも到り得ぬ身には、道元のように「仏になれ」とも言わず、また親鸞のように「地獄一定の身」ともいわず、たゞ「人間に生まれた以上は人らしき人になれよ」と教えられた葛城の慈雲尊者の、まどかな大慈悲心の前に、心から頭が下がるのです。
 七月十日
足もとの紙クズ一つ拾えぬ程度の人間に何ができよう。
 七月十一日
畏友というものは、その人の生き方が真剣であれば必ず与えられものである。
もし見つからぬとしたら、それはその人の人生の生き方が、まだ生温かくて傲慢な証拠という他あるまい。

宗教ジョーク

 宇宙を創る前、神は何をしておられたのですか?
そういう質問をするやつの為に地獄を作っておられました。

「カルトの歌」
カルトを愛する人は 心清き人 清き心を改造された ぼくの友だち
カルトを愛する人は 心強き人 岩のような信心貫く ぼくの父親
カルトを愛する人は 心深き人 隠して騙して結婚迫る ぼくの恋人
カルトを愛する人は 心広き人 知らないうちに 信者登録 ぼくの母親

宗教はトイレのようなものである。
用を足すためには、一部であれ自分の内部をさらさねばならない。

ある日のこと、一人の男が地獄に到着し、悪魔に出迎えられた。
悪魔はいくつかの罰の中から一つを選ぶことができると説明。
これから、それぞれ三つの部屋を案内するという。
第一の部屋では、若い男が、鎖で壁につながれて、ムチで叩かれ、皮膚が破れ、肉が裂け、血にまみれ,傷口はウジがおおい尽くし、痛みと恐怖で叫び続けている。
第二の部屋では、中年の男が、永遠の業火で火あぶりの永遠に続く刑を受けている。
第三の部屋では、年老いた男がゴージャスな金髪女性に全身をお口でやさしくご奉仕してもらっている。
「これにします」と、男は瞬間的に声をあげた。
「よし」
悪魔はそう答えると、金髪女性に向って歩いていき、
「オーケー」と言って彼女の肩をポンと叩いた。
「もう行っていいぞ。お前の代りが見つかった」

五月の或る日のこと、さわやかな風が吹き渡る中、どこまでも長く延びている農道で甚平は、道路の端をリヤカーひく人のよさそうなおじいさんに出会った。
「おじいさん。何を運んでるの?」
「これかい?これは、牛の糞だよ」
「それ、どうするの?」
「これから牛の糞を畑まで運んで、それからイチゴの上ににかけるんだよ」
「ええっ!おじいさん、いいから、そんな事しないで、うちへおいでよ」
「ん?、どうしたんだい?」
「おじいさん、かわいそうに。イチゴを食べるとき、うちじゃぁ、イチゴにミルクをかけるんだよ」

友人が知らないオバサンに、ある宗教の勧誘をされたときの話
オバサン 「正しいモノはいつか必ず正しいと証明されるの、その証拠にね、NASAってあるでしょ? そのNASAの実験結果なんだけど… 宇宙の電波キャッチしてその波動を研究したところ、これ、信じてもらえないかもしれないけど、宇宙の電波ってね、南妙法蓮華経って言ってるの。」
—–
宗教ジョークを作ろう
より

日々の言葉

宗教とは、ある面からは現実認識への徹到ともいえよう。
そしてその場合、現実の中心を為すのはもちろん人間である。
随って人は宗教によって真の人間認識に達しうるともいえよう。
—–
嫉妬は女にのみ特有のことではなく、男女に共通する最深の罪といってよい。
そしてそれは結局、自己の存立がおびやかされる事への危惧感であって、
いかに卓れた人でも、事ひと度自己の専門に関する事柄ともなれば、
いかに隠そうとしても嫉妬心が兆す。
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すべて一芸一能に身を入れるものは、その道に浸りきらねばならぬ。
躰中の全細胞が、画なら画、短歌なら短歌にむかって、
同一方向に整列するほどでなければなるまい。
森 信三 『一日一語』より

正法眼蔵 生死

生死の中に仏あれば生死なし。又云く、生死の中に仏なければ生死にまどはず。
こころは、夾山(かつさん)・定山(じょうざん)といはれし、ふたりの禅師のことばなり。
得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。
生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。
もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。
いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり。
ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。
生より死にうつると心うるは、これあやまり也。
生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。
故(かるがゆえ)に、仏法の中には、生すなはち不生といふ。
滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。
これによりて、滅すなはち不滅といふ。
生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。
かるがゆゑに、生きたらばただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかひてつかふべし。
いとふことなかれ、ねがふことなかれ。
この生死は、即ち仏の御いのちなり也。
これをいとひすてんとすれば、すなはち仏のいのちをうしなはんとする也。
これにとどまりて生死に著すれば、これも仏のいのちをうしなふ也。
仏のありさまをとどむるなり。
いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。
ただし、心を以てはかることなかれ、ことばをもつていふことなかれ。
ただわが身をも心をもはたちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。
たれの人か、こころにとどこほるべき。
仏となるに、いとやすきみちあり。
もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふことなき、これを仏となづく。又ほかにたづぬることなかれ。