「やっぱりね」と思うのは脳の認知ミス?
http://www.nikkeibp.co.jp/article/nba/20081225/181395/
カテゴリー: blog
ラーマクリシュナの福音
一目置いてる、ある方が言ってました。
「ラーマクリシュナを読むのは難しい。
なぜなら、彼は、悟った後、この世界でどう生きるか、ジュヤーナ(智慧)の道を踏破した後に出てくるバクティ(愛・信仰)の話をしているのだが、多くの人は、それを悟り以前の話として読んでしまう。
なので、順序として、まずクリシュナムルティや、ニサルダガッタ、プンジャジなどを充分に読み(それらの知識と経験を充分に積み)、その後で読むべきものである」と。
最近、『ラーマクリシュナの福音要約版〈上巻〉』を手に入れ、読み進めているのですが、その言葉に頷ける気がしてきました。
私は、この本を20代前半で一度読んでいるのですが、それを今のようには読めませんでした。
「神」「愛」「奉仕」などの言葉の一つ一つを深いレベルで理解できるだけの基礎(知識と経験)がない限り、この本の味は分からなかったのだな、と感じます。
ただ一つ感じるのは「彼の教えは普遍性を持つ(わたしたちにも適用可能)だけれども、歴史的人物としての彼の個性は、特異例でしかない」と云う印象です。
この印象は、20年前に読んだときと変わりません。
これは、クリシュナムルティにも同じく感じることですが、
もともと特異な脳を持った変種(良い方向に壊れた特異例)だと思います。
日常的にしょっちゅう神に酔い、外界知覚の無いエクスタシーに入る姿には、異様な感じを受けます。
そこらへんは、余り気にしないで良いのだと思いますが。
日本語訳には、2種類のものがあるようです。
『抜粋ラーマクリシュナの福音』
『ラーマクリシュナの福音要約版〈上巻〉』
『ラーマクリシュナの福音』
ラーマクリシュナの福音 OSHO「私が愛した本」
ラーマクリシュナ – Wikipedia
肉体を通しての自由
先ほど、こういう文章を眼にしまして、違和感を感じました。
> 私は肉体ではありません。私は自由です。
> 肉体が自分であると知覚している限り自由は不可能です。
> 肉体は制限です。
> 肉体の中で自由を求める人は、自由を見つけることが不可能な場所で自由を探しています。
> マインドがそれ自身を肉体の中にあるものとして見なくなり、肉体にしっかりとつながれていて肉体の存在によってかくまわれているものとして見なくなれば、自由になることができます。
私なら、こう書くでしょう。
肉体を通して、自由に生きることができる。
肉体の中に、自由への扉(鍵)が秘めれている。
人間(意識)は、自由を拡張するために肉体を持ち、それを進化させた。
マインド(心)は、精神的なプロセスではなく、まぎれもなくマテリアルな、肉体的なプロセスである。
肉体を通して、マインドは自らの身の程(存在位置)を知り、自由に至ることができる。
肉体=意識であり、肉体を離れた場所に意識の自由を求める錯誤に陥ってはならない。
瞑想や宗教を「肉体と切り離されて存在(存続)する純粋なる意識(魂)の探求」であるとする理解が、未だに(スピリチュアルと云われるジャンルのなかでも)通念のように行き渡っています。
が、もうそろそろ、そういう分かりやすい御伽噺(輪廻とか、肉体を脱ぎ捨てた後の魂とか)のレベルは卒業する時期ではないかと思います。
『真剣―新陰流を創った男』
『真剣―新陰流を創った男、上泉伊勢守信綱』
私にはこの分野の知識は全くないので、この作品の、どの部分が史実に基づいており、どの部分が作者の創作(想像)なのかの判断はつかないのですが、小説としてよくできていると思います。
新陰流が、どういう時代背景に、どういう経歴を経た人間によって生み出されたものかの、大枠が理解できました。
ひとつの伝統(流派)が形成され、継承されることの大変さを感じ、
今この時代に、その宝に触れることの有り難さを感じました。
また、自分自身の仕事に対する思いも新たにされ、良い刺激となりました。
SF小説の醍醐味
『ゴルディアスの結び目』 小松 左京
このブログを面白がって読んで下さっている方にはオススメできる本だと思います。
読むのに、それほどの時間は掛かりません。なかなかのものです。
Kの教えについて
どなたかがクリシュナムルティについて書かれた文章が印象的だったので紹介してします。確か、2chにあるクリシュナムルティ関係のスレッドで採集したのだと思います。(霊基)
—–
山に登っている人がいます。
頂上に立つ人がいます。
登山者が、頂上の人に「あなたには世界はどう見えますか」と聞きます。
頂上の人は「世界は広く、美しい」と答えるでしょう。
ところが、じめじめとした森の中を歩いている登山者の耳には、
それは「抽象的な理想論」に聞こえます。
少なくとも、私の目の前の混乱を解決してはくれないではないか?
世界のどこがそんなに美しいというのか?
・・・そうした気分になるでしょう。
目に見えている景色が違うのですから、伝わるわけがないのです。
頂上の人は、結局のところ、頂上からの景色は、頂上に立たなければ分からないことを知っています。Kは随所でその意味のことを書いています。
Kもまぎらわしいことを云わず、「それは説くことはできません。ただ登りなさい(自分に何が起こっているかを見つめ、理解しなさい)」と云い続けてくれればいいのですが、、、
時々、ふっと答えてしまうのでしょうね。
彼にとっては区別がないので、見解を聞かれたら答えるのは自然なことなのですが、それはKから見た景色について語っているのであって、私達がその景色からKに同化することはできません。
Kの境涯を知りたければ、同じ場所に立たなければならず、そのためには見つめ、理解することです。