この本、私自身、どういう経緯で自分の手元にあるのか分からない本なのですが、とても良い内容ですので紹介してみます。
『わが青春の谷津干潟―ラムサールへの道』
同じ主題を扱った児童書。
これも読んでみましたが、非常に良い内容でした。
子どもさんにオススメです。
どろんこサブウ-谷津干潟を守る闘い-: 松下 竜一, 鈴木 まもる:
どろんこサブウ―谷津干潟を守る戦い
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映画 赤ひげ
禅の古典
ラマナ・マハルシの言葉
何であれジニャーニのすることは他者のためだけに為され、
たったひとつの行為でさえ彼自身のためにすることはない。
彼は泣く者とともに涙を流し、笑う者とともに笑い、
陽気な者とともにたわむれ、歌う者とともに拍子をとりながら歌う。
彼が何を失うというのだろう?
彼の存在は透明な鏡のように純粋だ。
彼には欲望も行為のための動機もなく、行為者という感覚もない。
彼はすべての活動が彼の存在の中でのみ起こり、
自分自身は何もしないという真理を知っている。
それゆえ、彼は起こっているすべての活動の沈黙の目撃者として留まるのだ。
本来無一物
ある方とのメールのなかで、
「梅雨入りしてから、ここのところ、荷物の整理などしています。要らない蔵書など全て売り払っております」と云う話しの流れのなかで「無一物」と云う言葉を使ったら、「そんなにお金に困っている状態なのですか?」との返信が来ました。
「無一文」と間違われたようです。
そう思われちゃう自分にも笑いましたが…
無一物中無尽蔵、花あり、月あり、楼台あり
むいちもつちゅうむじんぞう はなあり、つきあり、ろうだいあり
あるいは、
本来無一物 何れの処(ところ)にか塵埃(じんない)を惹(ひ)かん
の言葉もあります。
「無一文」を「無一物」に変える力量を持ちたいものです。
一日一語
七月一日
世界史は表から見れば「神曲」の展開―
そして之を裏がえせば、人類の「業」の無限流転といえよう。
されば之に対して何人が、絶対的正邪善悪をいう資格があろう。
七月二日
この地上には、一切偶然というべきものはない。
外側から見れば偶然と見えるものも、
ひと度その内面にたち入って見れば、ことごとく絶対必然ということが分かる。
七月三日
いかに痛苦な人生であろうとも、「生」を与えられたということほど大なる恩恵はこの地上にはない。
そしてこの点をハッキリと知らすのが、真の宗教というものであろう。
七月四日
人はその一心だに決定すれば、如何なる環境に置かれようとも、何時かは必ず、道が開けてくるものである。
七月五日
弱きと悪と愚かさとは、互に関連している。
けだし弱さとは一種の悪であって、弱き善人では駄目である。
また智慧の透徹していない人間は結局は弱い。
七月六日
人間の偉さは才能の多少よりも、己に授かった天分を、生涯かけて出し尽くすか否かにあるといってよい。
七月七日
自己の力を過信する者は、自らの力の限界を知らぬ。
そして力の限界が見えないとは、端的には、自己の死後が見えぬということでもあろう。
七月八日
かにかくにひと世(よ)つらぬき生きて来し そのいや果てぞいのち賭けなむ
七月九日
道元の高さにも到り得ず、親鸞の深さにも到り得ぬ身には、道元のように「仏になれ」とも言わず、また親鸞のように「地獄一定の身」ともいわず、たゞ「人間に生まれた以上は人らしき人になれよ」と教えられた葛城の慈雲尊者の、まどかな大慈悲心の前に、心から頭が下がるのです。
七月十日
足もとの紙クズ一つ拾えぬ程度の人間に何ができよう。
七月十一日
畏友というものは、その人の生き方が真剣であれば必ず与えられものである。
もし見つからぬとしたら、それはその人の人生の生き方が、まだ生温かくて傲慢な証拠という他あるまい。