宗教ジョーク

 宇宙を創る前、神は何をしておられたのですか?
そういう質問をするやつの為に地獄を作っておられました。

「カルトの歌」
カルトを愛する人は 心清き人 清き心を改造された ぼくの友だち
カルトを愛する人は 心強き人 岩のような信心貫く ぼくの父親
カルトを愛する人は 心深き人 隠して騙して結婚迫る ぼくの恋人
カルトを愛する人は 心広き人 知らないうちに 信者登録 ぼくの母親

宗教はトイレのようなものである。
用を足すためには、一部であれ自分の内部をさらさねばならない。

ある日のこと、一人の男が地獄に到着し、悪魔に出迎えられた。
悪魔はいくつかの罰の中から一つを選ぶことができると説明。
これから、それぞれ三つの部屋を案内するという。
第一の部屋では、若い男が、鎖で壁につながれて、ムチで叩かれ、皮膚が破れ、肉が裂け、血にまみれ,傷口はウジがおおい尽くし、痛みと恐怖で叫び続けている。
第二の部屋では、中年の男が、永遠の業火で火あぶりの永遠に続く刑を受けている。
第三の部屋では、年老いた男がゴージャスな金髪女性に全身をお口でやさしくご奉仕してもらっている。
「これにします」と、男は瞬間的に声をあげた。
「よし」
悪魔はそう答えると、金髪女性に向って歩いていき、
「オーケー」と言って彼女の肩をポンと叩いた。
「もう行っていいぞ。お前の代りが見つかった」

五月の或る日のこと、さわやかな風が吹き渡る中、どこまでも長く延びている農道で甚平は、道路の端をリヤカーひく人のよさそうなおじいさんに出会った。
「おじいさん。何を運んでるの?」
「これかい?これは、牛の糞だよ」
「それ、どうするの?」
「これから牛の糞を畑まで運んで、それからイチゴの上ににかけるんだよ」
「ええっ!おじいさん、いいから、そんな事しないで、うちへおいでよ」
「ん?、どうしたんだい?」
「おじいさん、かわいそうに。イチゴを食べるとき、うちじゃぁ、イチゴにミルクをかけるんだよ」

友人が知らないオバサンに、ある宗教の勧誘をされたときの話
オバサン 「正しいモノはいつか必ず正しいと証明されるの、その証拠にね、NASAってあるでしょ? そのNASAの実験結果なんだけど… 宇宙の電波キャッチしてその波動を研究したところ、これ、信じてもらえないかもしれないけど、宇宙の電波ってね、南妙法蓮華経って言ってるの。」
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宗教ジョークを作ろう
より

日々の言葉

宗教とは、ある面からは現実認識への徹到ともいえよう。
そしてその場合、現実の中心を為すのはもちろん人間である。
随って人は宗教によって真の人間認識に達しうるともいえよう。
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嫉妬は女にのみ特有のことではなく、男女に共通する最深の罪といってよい。
そしてそれは結局、自己の存立がおびやかされる事への危惧感であって、
いかに卓れた人でも、事ひと度自己の専門に関する事柄ともなれば、
いかに隠そうとしても嫉妬心が兆す。
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すべて一芸一能に身を入れるものは、その道に浸りきらねばならぬ。
躰中の全細胞が、画なら画、短歌なら短歌にむかって、
同一方向に整列するほどでなければなるまい。
森 信三 『一日一語』より

正法眼蔵 生死

生死の中に仏あれば生死なし。又云く、生死の中に仏なければ生死にまどはず。
こころは、夾山(かつさん)・定山(じょうざん)といはれし、ふたりの禅師のことばなり。
得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。
生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。
もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。
いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり。
ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。
生より死にうつると心うるは、これあやまり也。
生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。
故(かるがゆえ)に、仏法の中には、生すなはち不生といふ。
滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。
これによりて、滅すなはち不滅といふ。
生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。
かるがゆゑに、生きたらばただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかひてつかふべし。
いとふことなかれ、ねがふことなかれ。
この生死は、即ち仏の御いのちなり也。
これをいとひすてんとすれば、すなはち仏のいのちをうしなはんとする也。
これにとどまりて生死に著すれば、これも仏のいのちをうしなふ也。
仏のありさまをとどむるなり。
いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。
ただし、心を以てはかることなかれ、ことばをもつていふことなかれ。
ただわが身をも心をもはたちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。
たれの人か、こころにとどこほるべき。
仏となるに、いとやすきみちあり。
もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふことなき、これを仏となづく。又ほかにたづぬることなかれ。

道歌、幾つか

その道に入らんと思う心こそ 我が身ながらの師匠なりけり

きせるさえ 心のやにを掃除せず 雁首ばかり磨く世の中

手や足の汚れは常に洗えども 心の垢を洗う人なし

朝夕に顔と手足を洗うなら 心のあかもすすぐなり

立ち向かう人の心は鏡なり おのが心を写しても見ん

わが心 かがみにうつるものならば さこそ醜き姿なるらめ

私(わたくし)を離れてみれば心ほど 明るき鏡 世になかりけり

知るとのみ 思いながらに何よりも 知られぬものは己なりけり

井戸掘りて 今一尺で出る水を 掘らずに出ずという人ぞ多き

道という言葉に迷うことなかれ 朝夕おのがなす業と知れ

追悼 川上雪担和尚

先ほど電話があり知ったのですが、
東山寺の川上雪担和尚が亡くなられたそうです。
肺炎をこじらせて入院し、一週間後のことだそうです。
私が参禅していたのは、もう10年近く前の事ですが、
これまで生身で見えた指導者のなかでは際立ってキャラ立ちした、
人間的な魅力と面白さ、そして禅機と云うのか、傍にいる事の心地良い緊張感を与えてくれる良い師でした。
落ち着いたら、当時の思い出話でも書いてみようかな、との気持があります。