わが身に降りかってくる一切の出来事は、
自分にとっては絶対必然であると共に、
また実に絶対最善である。
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雑務という言葉は、私たちのよく耳にする言葉ですが、
「一言もって その人を知る」とは、まさにこのような場合にも当てはまるかと思うほどです。
それというのも、その人自身、それを雑務と思うが故に雑務となっているのであって、
もしその人が、それをもって自分の修養の根本義だと考えたならば、下手な座禅などするより、遥かに深い意味を持ってくるでしょう。
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下座行とは、自分を人よりも一段と低い位置に身を置くことです。
言い換えれば、その人の真の値打ちよりも、二、三段下がった位置に身を置いて、
しかもそれが「行」と言われる以上、いわゆる落伍者というのではなくて、
その地位に安んじて、わが身のの修養に励むことを言うのです。
そして、それによって、自分の傲慢心が打ち砕かれるわけです。
すなわち、身はその人の実力以下の地位にありながら、
これに対して不平不満の色を人に示さず、
真面目にその仕事に精励する態度を言うわけです。
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我々が夜寝ると云うことは、つまり、日々人生の終わりを経験しつつあるわけです。
一日に終わりがあるということは、実は日々「これでもか、これでもか」と、死の覚悟が促されているわけです。
しかるに凡人の悲しさには、お互いにそうとも気づかないで、一生をうかうかと過ごしておいて、さて人生の晩年に至って、いかに嘆き悲しんでみたところで、今さらどうしようもないのです。
人間も五十を過ぎてから、自分の余生の送り方について迷っているようでは、悲惨と言うてもまだ足りません。
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真に意義のある人生を送ろうとするなら、
人並みの生き方をしているだけではいけないでしょう。
それには、少なくとも人の一倍半は働いて、
しかも報酬は、普通の人の二割減くらいでも満足しよう、
と云う基準を打ち立てることです。
そして、行く行くは、その働きを、二人前、三人前と伸ばしていって、
報酬の方は、いよいよ少なくしても我慢できるような人間に自分を鍛え上げていくのです。
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真理は、現実の唯中にあり。
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人間の真の強さというものは、人生のどん底から起ち上がってくるところに、初めて得られるものです。
「修身教授録」一日一言
『修身教授録』 森信三 より
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事実のみ
いま、現に存在する事実・現象(痛み、不安、苦しみ)などを全面的に経験することこそが瞑想であり、
それ以外の、それを無くそう、そこから離れようとしてする心身の操作は、基本的に逃避である。
現実から逃げている限り、その現象は繰り返し現れ、人生に付き纏う。
しかし、今ある現象を変えよう・無くそうとするのではなく、
それをそのままに、見よう・耳を澄まし聴き取ろう・理解しようとする
受容的(受苦的)な心の構えができたとき、
その事実は、真理(答え)へと変容を始める(化けていく)。
この変容の過程を、事実の開花(フラワリング)との言葉で表現することもできる。
「瞑想とは、ある意識状態(現実)から別の意識状態(理想状態)へ移っていくことと思われているが、実際にはそうではなく、あるがまま(現実・事実)を見て(に聴いて)、そしてそれだけになっていく過程なのである。」
あるがままのもの(今の現実)そのものが、真理である訳ではない。
しかし、この個々人の、今ある、あるがままの現実こそが、真理への扉(秘密のドア)であり、そこを通ってしか真理の世界には参入できない。
その扉を開きたければ、根気強く、この、いまある「痛み、不安、苦しみ」と云う事実・現実を見、それに聴き、そこから逃げようとすることなく、そこに留まり、それを味わい尽くし、それと一つになることしかない。
不安、恐怖に学ぶ
善性は、恐怖の及んでいる場では開花できません。
実にさまざまな恐怖が、直接的な恐怖や未来への多くの恐怖があります。
恐怖は概念ではありません。
しかし恐怖についての説明は概念的ですし、
その説明は学者によって、あるいは知識人によってそれぞれ異なります。
説明は重要ではありません。
〈あるがまま〉が重要なのであり、
恐怖という事実に直面することが重要です。
クリシュナムルティの智慧
http://krishnamurti.g.hatena.ne.jp/sessendo/
森信三の言葉
「一日は一生の縮図なり」
「道徳とは自分が行うべきもので、人に対して説教すべきものではない」
「しつけとは、そのことの意味や価値が十分わからんうちに、形の方から身につけてゆくこと」
「一生の志を立てることが根本です。
つまり自分の生涯を貫く志を打ち立てるということです」
「人間の人柄というものは、その人が目下に対する場合の態度、とくに言葉遣いによって分かるものであります」
「人間は徹底しなければ駄目です。もし徹底することができなければ、普通の人間です」
「真面目ということの真の意味は、自分の『真の面目』を発揮するということ」
「真の修行は、竹刀を捨て坐禅を解いてから始まる」
人間の一生(読み人知らず)
職業に上下もなければ貴賤もない。
世のため人のために役立つことなら、何をしようと自由である。
しかし、どうせやるなら覚悟を決めて十年やる。
すると二十からでも三十までには一仕事できるものである。
それから十年本気でやる。
すると四十までに頭をあげるものだが、それでいい気にならずにまた十年頑張る。
すると、五十までには群を抜く。
しかし五十の声をきいた時には、大抵のものが息を抜くが、それがいけない。
「これからが仕上げだ」と、新しい気持ちでまた十年頑張る。
すると六十ともなれば、もう相当に実を結ぶだろう。
だが、月並みの人間はこの辺で楽隠居がしたくなるが、それから十年頑張る。
すると、七十の祝いは盛んにやってもらえるだろう。
しかし、それからまた、十年頑張る。
するとこのコースが一生で一番面白い。
森 信三
http://www2s.biglobe.ne.jp/~SHUJI/hagaki/morishinzo.htm
このページにある、森信三語録「一日一語」が素晴らしいです。
二宮尊徳の歌
音もなく香もなく常に天地は 書かざる経をくりかへしつつ
見渡せば迷ひ悟りはなかりけり 己おのれが心にぞある
夕立にふりこめられて耕せば 青天井を開き給わる
山の高く見ゆるうちは勤めてのぼるべし。
登りつきれば、ほかに高き山はなく、四方とも眼下なるがごとし。
この場にいたって仰ぎていよいよ高きは、天のみなり、
ここまで登るを修行という。
報徳日めくり
http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/diary/200906040000/
見る、と、聴く
人の五官は、視覚と聴覚とを主とする。
見と聞とが、外界に対する交渉の方法であった。
しかしそれは、単なる感覚の世界の問題ではない。
「みる」とは、その本質において、神の姿を見ることであり、
「きく」とは、神の声を聞くことであった。
そのように、物の本質を見極める力を徳といい、
また神の声を聞きうるものを聖という。
徳は目に従い、聖は耳に従う文字である。
白川静「文字逍遥」より