被災地の映像を見て 3

そして、その上で、この映像を見て、すごいなー、と思うのです。
【地震】じいさん「また再建しましょう」
過去に自然災害を経験しているから? いや、戦争を経験しているから?
なぜ、こんなに強いのだろうと思うのです。
人間は、これくらいのことで諦めていたら、いま、こうして生き残れてはいなかった。
これくらいは何ともない、強さを持った生き物なのでしょう。

もし、貴方が、もう一日頑張ってみよう、と思えるなら、もう一粘りしてみましょう。
死ぬのは最後にとっておいて。
最悪は最善の予兆(前触れ)であり、
地獄の底の床板を剥がしてみたら、天国の最上階の天井裏だったと云うのが、人生の常です。
「死ぬか狂うか」の限界状態まで、簡単に折れてしまわずに粘ることです。
大丈夫です。人間(の脳は)、結構強いものです。そう簡単には壊れません。

被災地の映像を見て 2

また、それと全く逆のことも感じました。
(これは不謹慎といわれるかも知れませんが、書いてみます。)
私は、マックス・エルンストと云う画家の「雨後のヨーロッパⅡ」と云う作品が、
(なぜか分からないのですが)昔から吸い寄せられるように好きなのですが、
その絵に感じるような、すべてが壊れてしまった後の、開放感のようなものも感じました。

現代の日本においては、有る程度の年齢になれば、大抵、未来(将来)は見えてきます。
安楽な世界で、それなりに暮らしてはいながら、
静かに絶望しているような閉塞感を感じている方は居られたでしょう。
それが、あっさりと粉砕されました。
もし、この現状に対する、(悲惨さと同時に)開放感を味わっておられる方が居られるなら、
初めて、「生きてる」と云う強烈な実感を感じておられる方が居られるなら、
それを、今後の人生の展開に生かして欲しいと思うのです。
(本当に、物事の感じ方(出来事の持つ意味)は、人によって全く違います。
この震災が、まったく逆の意味を帯びている方も居られると思うのです)
もし、貴方にとってこれが「良きこと」であったならば、
この好機を逃さず、本当に満足できる、本当に自分が生きたい人生を築いて欲しいと思うのです。
「人生第2幕」と考えて、これまでの自分には破れなかった限界を破って、
生を燃焼させて欲しいと思うのです。
洪水によって川底が揺すられ、剥ぎ取られると、全てのものが動きます。
振動によって、それまでの秩序が揺れて壊れて、動き始めます。
いま、全てのものが移動を始めています。
西と東で、南と北で、かってない大規模な、この出来事がなければ起こらなかったであろう(人の、モノの)移動が生じています。
安定していたものがシャッフルされ、流動化しています。
これが、良いことなのか悪いことなのか、それは私たちには分かりません。
ただ、地球始まって以来続いてきた、自然なできごとではあるのでしょう。
これまでの自分の人生に不満であった人、でも「こんなもんだろ」と諦めていた人は、
この好機を逃がさず、本当に納得できる人生を掴んでいただきたいと思うのです。

被災地の映像を見て 1

何日か前、私は「被災地の皆様へ お詫び」と云う文章を書きましたが、
あのとき、ショックを受けた震災映像とは、
街中まで津波が押し寄せて、メリメリといつも住んでいる町並みが飲み込まれていく情景、
また、その後の、泥一色のペローンと舐め尽くされた(あるいはグチョグチョの残骸だけになった)情景、でした。
これが自分の土地・家で起こったことだと考えたら、とても復興頑張ろうとは思えようもなく、
自分だったら、もうやる気しなくて、めんどくさくなって、そのまま人に気づかれないように海にでも行って身を投げて、津波の被害者、行方不明者の一人になった方が楽じゃないかな、と正直思いました。
私たちが、死にたいときに自殺を思い留まる理由のまず一つに、「職業的な責任感」があるでしょう。
もし、私が、この町の町長さんであれば、幾ら死にたくとも、いま自分だけが死んで逃げるのは無責任だから、自分の気持などおいといて、いまはひたすら頑張るでしょう。職務を果たすでしょう。
では、会社も全て無くなって、その「職業的な責任感」を負う立場にない人の場合はどうでしょう。
その場合に残るのは、家族を(親を、妻・夫を、兄弟を、子供を)悲しませたくない、と云う思いでしょう。多くの方が、これで自殺を我慢しています。
しかし、今回の震災の場合、もし家族皆を失っており、自分だけが残っている方の場合には、この抑止力は働きません。
自身のこれまでの何年(何十年)かけて築いてきた財産、愛してきたペット、大事にしてた車、お気に入りの服、パソコン、CD、DVD…、それら全てを一気に失い、そして、それら全ての愛着・財産・宝が、一夜にして片付けなくてはならないゴミになると云うのは、(それだけでも)想像を絶するキツさでしょう。
また、未来の夢、将来の展望、これまで積み上げたきたものも、
すべて失われている方も、多いでしょう。
私がこれらの映像を見て思ったのは、
今回の事態では、自殺を選ぶことも良しとするべきだ、と云うことです。
「もう嫌になった」のなら、ひとり静かに消えていくことも、許してあげるべきだと思うのです。
また、被災地を捨て、他所に逃げる、他所で新たなる人生を始める選択も、
許してあげるべきだと思うのです。
それを「弱い」と云えるだけの強靭さは、私自身持っていません。
これから被災地の復興に取り組まなくてはなりません。
元気を出さなくてはなりません。
しかし、「もう良いです、疲れました、嫌になりました」と
静かに消えていこうとしている人が居るならば、いたわりの気持を持って、やさしい気持で、気がつかないふりをして見送ってあげるべきだな、と感じたのでした。
その絶望を本当には知らない私には、それ以上のことは言えない、言ってはいけないのだと理解したのでした。

不測に立ちて無有に遊ぶ

『その男ゾルバ』の作者である、ギリシアの作家ニコス・カザンザキスのお墓には、
以下の文が刻まれているそうです。

私は何も信じない
私は何も恐れない
私は自由だ

ずっと昔、この言葉を知って、カッコイイな~、いつか自分をもこんなセリフ言ってみたいもんだ、と思ったものでした。

私が取っているメールマガジン『アセンション館通信』の2011/4/10発(第366号)に
こんな言葉が出てきます。

質問者:あなたが到達したという至高の実在とは何だったのでしょうか?
ニサルガダッタ・マハラジ:
私はもはや騙(だま)されない。 それだけだ。
私は世界をつくり出し、そこに住んでいた─ もはやそうすることはないのだ。
『私は在る』(p410)

質問者:あなたは真我の実現の確かな日時を伝えています。
それはつまり、その日に何かが起こったということでしょうか?
何が起こったのでしょうか?
ニサルガダッタ・マハラジ:
マインドが出来事をつくり出すことをやめたのだ。
遙かなる昔からの絶え間ない探求が終焉したのだ。
私は何も望まず、何も期待せず、何ひとつ私のものとして受け取らなかった。
そこに闘おうとする「私」は残っていなかった。
ただの「私は在る」さえも消え去ったのだ。
もう一つ気づいたことは、すべての習慣的な確信を失ったということだ。
以前、私は多くのことに確信をもっていた。
今、私には何ひとつ確かなことはないのだ。
だが、知らないことで何かを失ったようには感じない。
なぜなら、私のすべての知識が偽りだったからだ。
私が知らないということ自体、すべての知識は無知なるものだという事実の知識なのだ。
「私は知らない」だけが私にできる唯一の表明だ。
『私は在る』(p410)

荘子に、「不測に立ちて無有に遊ぶ」というの言葉があるそうです。
「不測に立ちて無有に遊ぶ」
禅の究極は、「遊」に尽きる、と言っていた禅僧が居りました。
白川静さんの「遊字論」も思い出されます。
「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。
遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。
それは神の世界に外ならない。
この神の世界にかかるとき、人もともに遊ぶことができた。
神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない。

遊とは動くことである。
常には動かざるものが動くときに、はじめて遊は意味的な行為となる。

神は常には隠れたるものである。
それは尋ねることによって、はじめて所在の知られるものであった。」

白川静「遊字論」『文字逍遥』より

「遊び」とは、決して生ぬるい半端ごとではなく、
死ぬ気で、死ぬよりも辛い現実を、行き抜く、
真に遊んでいる、そのとき、遊びの自覚など、あるはずもないのでしょう。

「もうアカン!」と思うだけ、余裕あり
と云う言葉も思い出されます。
「もう駄目だ! 自分は、もう限界だ!」と言ってるだけ、まだ余裕があり、
その自分の限界を認識できる余裕も無い限界状況を生き切ったとき、
後に、それを振り返って、命懸けの気違いじみた「遊」の最中にあったのだ、と感じるのでしょう。
死ぬのは簡単だし、死んで何も悪くはない(それは個人の選ぶことです)。
でも、もし明日一日を生き抜くなら、痛みと苦しみに全身浸って浮かぶしかなく、
常に、予測できない、想定外の、記録破りの現実(新たなるもの)のなかで、何も知らない、何も分からない、不知の状態のなかで、
無有(生死)の線上を綱渡りをしながら動いていくしかなく、
そうでなかった、これまでのヌルイ、弛んだ現実(生活)の方が自然でなかっただけで、今の、この張り詰めた現実こそが、本当・本来の生きていることなのかもしれません。
「瞬間瞬間、死に逆らうことによってしか、生を維持できない」のが生物にとって自然であり、死にたくなければ、全力で生きる努力を、生き延びる工夫をしていくしかないのです。
死に裏打ちされることで、生は、その輝きを増します。
末期の風景の美しさも、そこにあるのでしょう。
死を、狂気を、足元に感じながら生きていることは、
決して悪いことでも、おかしなことでもないのかも知れません。
そして、この生と死の淵に、揺らがない彼岸への跳躍台も隠されているのでしょう。
「ピンチは、チャンス」と云うありきたりな言葉を、
何度も繰り返し唱えたいものです。

情報の陰陽

取っているメールマガジンの一つ、『夢を叶える心のストレッチ』の第69号に、
こんな文章が載ってました。
—–
毎日夥しいほどの情報が行き交っています。
私達は何も行動していなくても、様々な情報に敏感になっている事で、
氣を消耗してしまっています。
情報にも陰陽があって、それを知る事で元氣と勇氣が湧いてくる情報があれば、
反対にそれを知ったが為に意氣消沈してしまう情報もあります。
情報脳を使うほどに、背中が硬くなります。(運氣が下がる)
スワイショウなどで身体脳を活性化する必要があるわけですね。
あらゆるものが手軽に手に入り、次から次へと新しい情報が入って来るこの時代・・・
何でもかんでも外から入ってくるものを氣にして、手を出していたら、
氣が全部身体から出て行ってしまいます。(-_-;)
自分にとって必要でない情報は見ても見逃し、聞いても聞き逃すのです。
人間関係も同じで、見逃せない、聞き逃せないから「許せない」のです。
もっと悠々と生きましょう(*^_^*)
今の時代大切な事は、
自分に必要な事と必要でない事を「見抜く」眼力なのでは・・・?
あなたの頭がパンクする前に、あなたの心が折れてしまう前に・・・
—–
自分も、(内容に関わらず)「陽氣」な情報を発信できたらいいな、
そのためには、まず自分の身心が澄んで安定して余裕があって元気でなければな、と感じたことでした。

地震の予知、予測について

どうせ出てくるだろうと思っていたら、こういうのが出てました。

東日本大震災を予知した預言者達! 日本に危機再び…!? – リアルライブ
http://npn.co.jp/article/detail/95820861/

ここに名前が挙がっている「預言者」の方たちについては知らないのですが、
知っておくべきこととして、歴史上、まぐれ当たりでなく確実に地震の予測ができていた占い師とか預言者はこれまで存在しない(証明されていない)ということがあります。

もし今名前の挙がっている方のうち一人でも、ホンマモンの予測ができているのであれば、それは今回の震災以上の大事件(歴史に残るような大きな発見)です。
その辺考えて、冷静に対応すべきだと思います。
名前で検索すると、こういう記事も出てきます。
(内容を精査しては居りません。が、ありそうな話だとは感じます)

小林朝夫さんのブログ – 防災 ・災害 – 教えて!goo
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6647452.html

では、なぜ「当たったと見える予言・予測が存在するのか」については
以下の本などがオススメできます。
Amazon.co.jp: 予言の心理学―世紀末を科学する: 菊池 聡
菊池聡『予言の心理学』
http://www.avis.ne.jp/~uriuri/kaz/dohc/dohc9809.html

こういう事態になると、自分のなかの不安感・恐怖心・猜疑心が暴走してきます。
不安、恐怖、疑いが膨らませた「最悪のシナリオ」に意識の焦点を合わすことないよう注意したいです。