自分の外側(社会)の動きに、自分の内面(の反映)を見、
自分の内面の動きに、自分の外(社会)の雛形を見る以外にないのだと思います。
「真の社会革命は、個々人の内側からしか起こらない」と言ったクリシュナムルティの言葉は、
いまの、この現実にも、変わらず適用できるものであると思います。
「The Only Revolution」と云う本もありました。
内と外とを切り離した認識(問題設定)において、
それを変えようとすることに、望ましい結果が待っているとは思えません。
まず変えるなら、自身の内なる、狡さ、汚さ、利己性であり、
まず処理すべきは、自身の内の、怒り、恐怖、不安、疑いではないでしょうか。
すべては自身の反映でしかないと、繰り返し言い聞かせながら。
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祈りの力を信じるなら
もし、祈りや慈悲の瞑想の力を信じているのであれば、
今、最も、その力を向けるべき対象は、
行政に関わっている政治家や、事態の収拾に必死になっている電力関係者の方たちではなかろうか、と思います。
その方たちが、誤った判断・決断を一つしてしまったなら、今後の日本の展開に大きく影響します。
なので、もし祈りや慈悲の瞑想の力を信じているのであれば、
まず、それらの人たちの心身の健康を祈り、その方たちが最高の能力を発揮し、職務を全うできることを祈るべきだと思います。
もし、いま政治家や電力会社に対して、怒りや嫌悪を向け、心の中で毒づいている人がいるとしたら、馬鹿者だと思います。
本当に出来のいい生徒(真に有能な人)に対しては、うまくできていることには触れないで(言わないで)、
失敗しているところだけを指摘する「厳しい指導態度」は有効でしょうが、
できの悪い生徒(それほど有能でない人)に対しては、
まず褒めて、ねぎらって、そのうえで欠けているところを指摘する、「やさしい指導態度」を取らないと、萎縮してしまい、その人が本来持つ能力を引き出す(発揮する)ことはできないと思います。
(この喩えで表現したいのは、「もし、それほど有能ではないと感じているのなら、なおさら批判(ダメだし)だけを続けて追い込んではならない」と云うことです)
今後、国内を「批判の嵐」が吹き荒れるなら、
その外に(他に)向けた批判によって、自身のエネルギー自体が消耗され、
互いに疲弊し、国は衰えていくでしょう。
批判は「内在的」でないかぎり、なんの良い結果も生み出せない、
と思うのです。
Reich – New York Counterpoint
スティーブ・ライヒ New York Counterpoint ‐ ニコニコ動画(原宿)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4244226
これのPart.1が、とりわけ好きです。
大西瀧治郎
修行者の方に
疲労と不安と怒り、そして、それの表現としてのイライラの頻発―
それが、現在、私たちの多くにとって問題となっていることではないでしょうか。
長期間に渡り、解消されないまま続いた「不安」は、疑いとなり、
より不安を強めるストーリーを生み出し、暴走し、
向けどころの無い「怒り」は、その理由付け(怒るに足る正当な理由)を探し、
分かり易い標的を見つけ出しては、それを発散しようとします。
「イライラ」は、生活を覆い、自分の心身を(放射性物質以上に)痛めつけていきます。
心身ともに、疲れてきています。疲労は溜まっています。
これまで安楽な環境のなかで、スピリチュアルな覚醒、愛や融合の話を楽しんでいた私たちの多くが、徐々に不安や恐怖、ストレスの産む「ネガティブストーリー」に巻き込まれつつあるように思えます。
はっきり言えば、私たちの多くが、これまで分かった風に喋っていた、
覚醒の教えやワンネスの教え― いま、ここしかない、とか、恐怖は思考が生み出す、とか、
そういった「カッコイイ話」が、全部、頭のなかの理解でしかなく、
あっけなくメッキが剥げてしまっている人が多いのではないでしょうか。
もし、自分がそうであるなら、
まず、そのことを率直に認めることからしか始まらないと思います。
自分の「分かったつもり」「悟ったつもり」なぞ、何の役にも立たなかった、
津波をさえぎる防波堤ほどの役にも立たなかった、と。
■
修行に行きたければ、この現実以外に、実践の場はなく、
最高のグル(師)を探したければ、この現実(の状況)のなかにしか居ないでしょう。
この「現実と云うグル」の与えてくれる課題を避けていて、
心の修行に始まりはないでしょう。
■
人間には二つの種類しかない。
問題 ・責任を、外に(他に)見ようとする人と、
すべてを、内に(自らに)見ようとする人と、の。
眼を外に向け、他を責めている限り、
自己の本質的な変化はなく、状況の本質的な改善もないでしょう。
(他の持つ問題も熟知した上で)まず、自分の側の問題を誤魔化しなく見つめ、
それにまず取り組んでいくとき、問題は動き始め、状況は変化していきます。
■
疲労、不安、怒り、イライラ―
いま、自分の中にそれしかないのが事実なら、それ以外に(それの外に)解決法も答えもありません。
その否定的感情自体がグル(師)であり、それに習うしかありません。
それだけに、徹底して留まるしかありません。
自分の、外に向けての情報収集が、この内なる不安、不満、イライラ、ソワソワからの、うまい逃避でないか確認してください。
もし、逃避であるのなら、まず、その「現にあるもの」からの逃避を止めてください。
そして、自分の限られた自由になる時間(空き時間)を、
その「現にあるもの」との対話・直面に振り向けてください。
自分=問題の感覚に留まること
問題の感覚に留まること
この、しばらく前の投稿に書かれていることを、
今まさに実践してみるべきときではないでしょうか。
それを最後までやり抜いたとき、
普通では得られない、大きな宝、大きな安定を得られることと思います。
今やらずに、何時やるのでしょうか。
真に自分を救ってくれる情報は外側にはなく、
自分の内側からしか出てきません。
■
これは自分自身に言っていることです。
いまこそ修行に専念するべきときでしょう。
ヨハネによる福音書 第8章
イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、
御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、
姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。
ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、
イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、
まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、
一人また一人と、立ち去ってしまい、
イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。
だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。
これからは、もう罪を犯してはならない。」