今年は屋久島も雪のお正月で外仕事ができず、
久しぶりにゆっくりと休んで、パソコン内の整理などしております。
あまりお正月と云う気もしないのですが、
明けましておめでとうございます。
今年も、よろしくお願いいたします。
今年は、研修所サイトの文章つくりに本腰入れたいと思っております。
整理していた資料の中に、少林窟道場時代の先輩の幽雪さんの書いた『アンチ菩提心論』と云う文章が出てきたのですが、その末尾の「絶望論」と云うのに眼が留まりましたので紹介してみます。
この文章は、かって幽雪さんのサイトに置かれていましたが、
いまはどうも削除されているみたいです。
全文アップはおそらく喜ばれないと思うので最後の部分だけ載せます。
◆ 絶望
最後は、これだ。
過去を引きずり、未来を当てにしていたら、
どうして、今、ここに落ち着くことが出来るだろうか。
今、ここに落ち着いていないで、どうして修行になるだろうか。
過去に自分が得た心境やら成した業績など何の役にも立たない。
そんなものは人の記憶の中で印象として残っているに過ぎない。
しかし、それにすがろうとしてしまう。
そこに自分の存在価値を認めようとする。
過去で自分を守ろうとする。
泡をかき寄せて、自分の周りに積み上げることで、
城壁を築こうとしているかのようだ。
しかし、今、単でなければ、単ではないのだ。
過去に単であったことは、もう存在しない。
未来に悟ることを期待することは、人を簡単に迷わせる。
何かちょっとした事で、パッと悟るのではないか、と思ってしまう。
徹した時に見性する、と聞けば、
何かそんな事件が起きるのではないかと思ってしまう。
未来に期待する思いが、そっと忍び込む。
未来の時点に特別な時を設定してしまう。
未来の悟りと、悟っていない今が峻別される。
今は、これから悟る今となり、悟っていない今となる。
悟っていない今に落ち着ける訳が無い。
今が、抜ける。
自己の内を見詰めてみれば、
そこには確かなものなど何も無く、
愚かで、小さな私が、恐怖におののいて、
過去にすがり、未来に期待しようとしているに過ぎない。
私は、それだけのものだ。
そんな私に悟りは、無い。
私に悟りはあり得ないのだ、と絶望した時、
悟りからの解放があり得る。
悟っていなくてもいいんだ。
もう悟らなくてもいいんだ。
過去にすがることもなく、未来に期待する何ものもない。
全てを失った者には、今だけが残る。
果てし無く、今だけが在る。
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注)文中、「単」とは、「ものと自分がひとつになっていること、その状態」のこと、いわゆる一枚になっている状態のこと、です。