人生という映画から抜け出す 『ワン・テイスト』上巻 P95~

この鏡のような心という自覚〈あるいは、不断の意識〉が強力に育まれていくと、粗大な目覚めている状態は次第に、あなたを圧倒したり、あなたを揺るがしたり、通り過ぎる感覚が唯一のリアリティであるとあなたに信じさせる力を失ってくという意味で、「夢のように」なっていく。
人生は長大な一編の映画のように見え始め、あなたは映画を見る不動の〈観照者〉になる。
幸せが生起し、あなたはそれを観照する。喜びが生起し、あなたはそれを観照する。
苦しみが生起し、あなたはそれを観照する。
すべての場面において、あなたは表面を通り過ぎるばか騒ぎや激しさという荒波に巻き込まれることなく、〈観照者〉になる。
台風の中心では、あなたは安全である。あなたに深い内的な平和が出現し始める。
あなたはもはや同じような説得力を持つ混乱を捏造することができなくなる。
しかしそれは、あなたが欲望、傷つき、苦しみ、喜び、幸せ、悲しみを感じなくなることを意味するわけではない。
あなたは今まで通りそれらすべてを感じることができる。
あなたはそれらに圧倒されなくなるのだ。
繰り返すが、それは映画を見るようなものである。
ときにスクリーンで起こっている出来事にすっかり引き込まれ、それがただの映画だということを忘れることがあるかもしれない。
スリラーを見ているとき、実際に怖くなってしまうことがあるだろう。
そのとき友人が身体を寄せ、「おい。ちゃんとしろよ。ただの映画だよ。本当じゃないんだ!」と言う。
すると、あなたはそこから抜け出すことができる。
悟りとは、人生という映画から抜け出すことである。
目覚めるためには、それを引き離さなければならない。
あなたは〈観照者〉として、これまでも、今も、映画を見つめている。
しかし、人生を深刻に捉えてしまうとき―映画を本当の出来事と考えてしまうとき―、自分が純粋かつ自由な〈観照者〉であることを〈忘却〉し、小さな自己―自我―と同一化するようになる。
あたかも自分が実際に見ている映画の一部であるかのように、あなたはスクリーン上の誰かと同一化する。
それゆえ、あなたは怖がったり、涙をこぼしたり、一緒になって苦しんだりするのである。
瞑想を実践すれば、あなたは自分の座席でくつろぎ始め、人生という映画を、判断しようとすることなく、回避しようとすることなく、把握しようとすることなく、押し進めようとすることなく、そして引き戻そうとすることなく、ただ見つめることができるようになる。
あなたはそれをただ〈観照〉するのだ。
鏡のような心になることで、あなたは単純な、明瞭な、自発的な、努力の必要のない、常に存在する意識の中で休息することができる。