辻雙明著 『禅の道をたどり来て』より、古川堯道老師の言葉

「禅の事というものは、本当に解っていない者でも、結構、ごまかして書けるものだ。
しかし、また、その片言隻語を聞けば、それで、ちゃんと、その人の境涯がわかる」
「見性するときは獅子のように烈しく、悟後の修行は象のようにユッタリとやらなくては駄目だ」
「初關(最初の公案)をいい加減に透ると、後がねちゃついて駄目だ。漆の桶へ手を突っ込んだようなものだ」
「いくら参禅し、いくら公案の数を数えても、大安心を得なくては…」
「歴参(いろいろな師家を処を参禅して廻ること)をするには、師家を見る眼がなくては…」
「歴参しても、それぞれの師家の長所を学ばなくては何にもならない。師家の短所を見ていては、幾ら歴参しても駄目だ」
「世間の評判と云うのは分からんものだ。実際に行ってみると、評判で聞いていたのと、まるで違う人がいる」
「どんな公案でも、結局は、絶対か、相対か、絶対と相対が無碍円融した処かだ」
「悟ったら、悟りのサの字もない処まで修行しなくては…」
「本当に修行し抜けば、その人その人の本性に帰るものだ。酒の好きなものは酒、女の好きなものは女、と云う風にな」
あるとき、無門関の第十九則「平常是道」に対する無門和尚の評唱のなかの「趙州たとえ悟り去るも、更に参ずること三十年にして始めて得てん」の「三十年」ということについて質問すると、堯道老師は、「三十年とは一生のことだ。修行は一生のことだ」と言われた。