以前に、どなたかが書かれていた「禅(大乗仏教)」と、「ヴィパッサナー(小乗仏教)」に違いはない、と云う言葉を読んで書いたもの。
いまでも、自分の言いたいことは、これに尽きている、と感じております。
……
>ヴィパッサナー瞑想に対する私の限られた知識からすれば、大乗的な世界観と根本的な違いを生むような、瞑想の方法上の違いは見つからない。
なぜ一方は、あるがままに観たとき「五蘊皆-空」と言い、もう一方は、「五蘊皆-苦」となるのか?
これは一言でいえば、「観察の倍率の違い」が生み出す問題であるでしょう。
以前に書いたことですが、
>ヴィパッサナーって、結局、顕微鏡下の世界の話ですから、その顕微鏡覗いたことのない人間が何言ってもしかたがないな、みたいな感じはあります。
> 眼の前にある紙を、肉眼で見ればつるつるだし、触ればすべすべだし。
> でも、100倍率の顕微鏡で覗けば、でこぼこで穴だらけかもしれない。
>どっちが“あるがまま”の真実で、どっちが妄想かという問題ではないでしょう。
> 肉眼で見れば、つるつるに見えなきゃおかしいし、顕微鏡で覗けば、でこぼこの穴だらけに見えるのが当然。
と云うこと。
実際には、空間的な倍率と云うより、時間的な倍率(動体視力)の違い。
1秒に1個のレベルの観察と、1秒に10~20個のレベルの観察を行っている双方にとって、世界の現れは異なっているのが当然であり、「世界の手触り」に相違が出てくるのも不思議ではない。