八月一日
一、礼を正し
二、場を浄め
三、時を守る
これ現実界における再建の三大原理にして、いかなる時・処にも当てはまるべし。
八月二日
われわれ、人間はそれぞれ自分の宗教的人生観―真の人間観―をもつべきである。
そしてそれは極微的には、そてぞれその趣を異にし、最終的には、一人一宗ともいえよう。
八月三日
人間の智慧とは、
(一)先の見通しがどれほど利くか
(二)又どれほど他人の気持ちの察しがつくか
(三)その上何事についても、どれほどバランスを心得ているかという事でしょう。
八月四日
英知とは、その人の全知識、全体験が発火して、一瞬ひらめく不可視の閃光といってよい。
八月五日
一眼はつねに、個としての自己の将来の展望を怠らぬと同時に、他の一眼は、刻々に変化してゆく世界史の動向を見失わぬことです。
こうした異質的両極を、つねにわが身上に切り結ばせつつ、日々を生き抜くことが大切でしょう。
八月六日
形ある石ひとつ分からぬような人間に、どうして色も形もなく、そのうえ転変常なき人心の察しなど出来るはずがない。
いわんや子らの心を心を育てみちびく教育の如きにおいておや。
八月七日
秋になって実のなるような果樹で、春、美しい花の咲く樹はない。
八月八日
すべて物事には基礎蓄積が大切である。
そしてそれは、ひとり金銭上の事柄のみでなく、信用に関しても同じことが言えます。
このほうがはるかに重大です。
八月九日
才無きを憂えず
才の恐しさを知れ
八月十日
「すべて最上となるものは、一歩を誤ると中間には留まり得ないで最下に転落する―」とは、げに至深の真理というべし。
八月十一日
夫婦の仲というものは、良きにつけ、悪しきにつけ、お互いに「業」を果たすために結ばれたといえよう。
そしてこの点に心の腰がすわるまでは、夫婦間の動揺は止まぬと見てよい。
八月十二日
女が身につけるべき四つの大事なこと
(一)子供のしつけ (二)家計のしまり。 (三)料理。 そして(四)最後が清掃と整頓
八月十三日
性に関しては、たとえ人から尋ねられても答える義務はない。
何となれば聞く方が非礼であるのみならず、「性」に対する冒涜だからである。
八月十四日
男の子は素質的には母親似が多く、娘は父親似が多い。
そして後天的には、息子は父親に、そして娘は母親に学ぶ。
ここに生命における「性」の相互交錯と交互浸透、ならびに先天と後天の絶妙なる天理が伺える。
八月十五日
一粒のけし粒だにもこもらへる命貴たふと思ふこのごろ
八月十六日
人間の生命が、たがいに相呼応し共感し得るということは、何たる至幸というべきであろうか。
世にこれに勝るいかなる物があるであろうか。
八月十七日
人間はいくつになっても名と利の誘惑が恐ろしい。
有名になったり、お金が出来ると、よほどの人でも、ともすれば心にゆるみが生じる。
八月十八日
その人が何を言っているかより、何を為しているかが問題。
そして両者の差がヒドければヒドイほど、その人は問題の人といってよかろう。
もしその上に有名だったら、一種の悪党性がつけ加わるとさえ言えよう。
八月十九日
人間は才能が進むほど、善・悪両面への可能性が多くなる。
故に才あるものは才を殺して、徳に転ずる努力が大切である。
八月二十日
水鳥の朽木(くちき)に浮かぶ真白さを 清(すが)しとぞ見つ朝の汀(みぎわ)に
天地(あめつち)の明けゆく光ほのぼのと 朝の河面(かわも)にわが見つるかも
八月二十一日
他人の学説の模写的紹介をしたり、あるいは部分的批評をする事をもって、哲学であるかに考えている人が少なくないが、真の哲学とは、この現実の天地人生をつらぬく不可視の理法を徹見して、それを一つの体系として表現する努力といってよい。
八月二十二日
世の中には、いかに多くのすぐれた人がいることか―それが分かりかけて、その人の学問もようやく現実に根ざし初めたと云えよう。
八月二十三日
われわれ人間は、ただ一人の例外もなく、すべて自分の意志ないし力によって、この地上に生まれてきたのではない。
そしてこの点に対する認識こそ、おそらくは最高最深の叡智といってよい。
されば我われ人間がそれぞれ自分がこの世に派遣せられた使命を突き止めねばなるまい。
八月二十四日
一切万有は神の大愛の顕現であり、その無量種の段階における発現というべきである。
八月二十五日
真実というものは、一点に焦点をしぼってピッチを上げなければ、発火しにくいものである。
八月二十六日
人間関係―与えられた人と人との縁―をよく噛みしめたら、必ずやそこには謝念がわいてくる。
これこの世を幸せに生きる最大の秘訣といってよい。
八月二十七日
宗教は人間が立派に生きるためのもの。
随って人間は神には仕えるべきであるが、宗教に仕えるべきではあるまい。
ひとつの宗教にゴリゴリになるより、人間としてまっとうに生きる事の方が、はるかに貴いことを知らねばなるまい。
八月二十八日
真の宗教が教団の中に無いのは、真の哲学が大学に無いのと同様である。
これ人間は組織化せられて集団になると、それを維持せんがために、真の精神は遠のくが故である。
八月二十九日
親鸞は「歎異抄」の冒頭において、「弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて」と言う。
その不思議さを、親鸞と共に驚きうる人が、今日果たして如何ほどあると言えるであろうか。
八月三十一日
人間はこの肉体をもっている限り、煩悩の徹底的な根切りは不可能である。
そしてこの一事が身根に徹して分かることこそ、真の救いといってよかろう。
八月三十一日
看護(みとり)しつつ独り坐すれば人間のひと世の運命さだめしじに思ほゆ
これの世の「業」を果して逝きにける人のいのちの今や清すがしも