この2日間、研修が空けて、自分の時間を持って持って考えてみるに、
自分が如何に、共感能力の低い、冷たい人間であったかを感じさせられます。
言い訳をさせていただければ、私の方は、目の前に問題を抱えて研修に取り組んでおられる個人がおり、それを自分の前の現実として、それに全力を注ぐしかなく、いま、ここの現実ではない、被災地の状況に感情移入している余裕がなかった、とは言えます。しかし、それも虚しい言い訳に過ぎないように思われます。
被災地に生きておられる貴方たちは、離れたところから、対岸の火事として今回の震災を見ている私たちに、怒りを感じる瞬間もあるでしょう。そして、絶望もあるでしょう。
私は、(研修者の方から、あるいはまわりの友人から)こんな質問を何度も受けています。
「自分は、震災の悲惨な映像をテレビ見ても、その大変さをメディアによって知っても、実は、それほどの現実味、共感、共悲を感じていない。そんな人には言えない自分に罪悪感を持っている。そのことをどう思いますか?」
それに対して、私はこう答えます。
「人類の進化の過程のなかで、その殆どの時間は、この「生身(五感)」で感られる現実だけが全てであり、それにもに全面的に対応することができるように脳は調整されている。
故に、どんなリアルな夢も、それを現実と混同して慌てることはない。もしそうなったら精神病と呼ばれます。
しかし、ここ何十年か、人間は、テレビと云うものを手に入れて、自分の現実の空中に、30cm×20cm、あるいは、50cm×70cmの、異世界(外の現実)の窓が開き、そこから他者の現実が流れて込んでくると云う、進化生物学的には特殊な事態を経験している。
生き物としての脳にとって、現実のリアリティ間は、まず「身体感覚」によって、またより深くは、「嗅覚(匂い)」によって、させられており、私たちは、「身体感覚」も「匂い」もない、映像と(スピーカーと云う人工的な音の定位である一点から流れてくる)音だけでは、その情報をリアルなものと感じられないようにできています。そうしないと、脳内妄想と、外界に対応している、世界のモデル(現実世界)を見分けることができず、身体的存続に不利だからです。
なので、いま、被災地の情報が、人事のように、テレビの中のフィクションのように、映画のように、テレビゲームのようにしか感じられないことで自分を責めることはありません」と。
まず、そのことを理解していただきたいのです。
私たちが、これまで外国で、どれだけ悲惨な自然災害があろうとも、
人事のように暮らしてきた、それが今度は、自分自身に、あるいは自分の身近に起こってきた。
瞑想系の教えは、まず第一に、「この自分が生きている5感で感じられる現実になりきり」、それを完全に生きること主眼が置かれています。
それは、これまで(この20~30年前までは)、それだけが人間の生きている現実の全てであったからです。
しかし、いま、それだけではなく、他の(他者の生きている)現実を自分の現実とする、あたらしい技(共感能力)を持つべき時期にあるのだと思います。
離れた場所に居る私たちにとって、いま、その渦中に居られる貴方たちと、同じ強度を持って震災の痛み・絶望を感じ続けることは、困難なことです。
私たちも、貴方たちの何十分の一か、何百分の一かは痛みを味わっています。
それを、ときには馬鹿話でも聞いて解放したいとは感じています。
そのお気軽な「解放」の場面を見て、腹立てることのないように、
「自分も、今回の震災に遭うまでは、人事であったな~ 同じことをしていたな~」と自身を内観する材料にしていただきたいと思います。
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4月も研修の問い合わせは幾つか入っていたのですが、いまのところ、28日まで空いております。
この久々の空白は何なのだろう、と考えましたが、
これを被災者の方への内的支援に使おうと思いました。
今日から、力のかぎり、具体的なアドバイスを書かせていただきます。
被災地の電波状況等、分かっていないのですが、もし、
メールで受信できた方が閲覧が楽であれば、記事を全てメールで送ります。
ご希望の方は、reiki@artofawareness.jpまで、連絡ください。
これまでの過去の記事は、余裕ぶって、偉そぶってて恥ずかしいかぎりですが、自分の過去の事実を忘れないため残します。
あまり推敲できていない荒い文章のままアップしていくことになると思いますが、お許しください。