ラメッシ・バルセカールの教えでは、「罪悪感からの解放」など、
「自分のなかの悪感情に対して、更に悪感情を重ねる」「怒りに対して怒る」「嫌悪を持っていることを嫌悪する」と云う、修行者が陥りがちな悪循環・ループによって、現在の事実・自分を観察するに必要なエネルギーが浪費されるのを防ぐ、と云うところに、まず第一のポイントがあるように感じます。
しかし、同時に、この観念は、返す刀で、
他人に対する「怒り、うらみ」を意識の深層の部分から切ってくれる、切除に役立つように思います。
通常、私たちは、たとえば親友との関係で「どうしても困っていいるから助けてくれ、とお金を無心され、かなり迷ったけど、自分の大切に取っておいた貯金を切り崩して、ほとんど貸してあげて、そのときは泣き出さんばかりに感謝され、必ず一年以内には返すから、と言われたのに、結局、一年経っても何の連絡もなく、こちらから連絡取ろうとしても梨のつぶて、何度か催促しているうちに不仲になり、そのうち第三者から、あの人が貴方の悪口言いふらしているよ、と聞かされ、その内容は事実無根の、自己弁護のためのかなり酷いものであった」などという事件とか、「自分の同姓の大親友と自分の奥さん(パートナー)が、実はずっと前から浮気をしていて、自分はまったく何も知らず気づかず、心を許して付き合っていたのだが、それがある切っ掛けで発覚した」とか云う出来事などが起こると、そうとう腹が立ち、こいつ殴ってやろうか、とか、まずは思いますが、瞑想などしている人ならば、どうにか色々な肯定的な考え方(反応系の思考)→反応系アファーメーション や瞑想による気づきなどで、どうにか表面的には、気づき、受け入れ、受容して、ある程度の時間をかけて、「それは自分にとって、起きるべくして起こった良きことだったのだ、甘んじて受け入れよう」と云う認識には至るでしょう。
が、実際には、心の奥底では、その相手に対する「怒り・腹立ち・軽蔑」の気持ちは残余することが多いでしょう。(その場合、主観的な感覚としては「怒り」ではなく「哀れみ」を感じる、などの形で、その怒りはくすぶり続けるでしょう)
この「怒り」の感情の正当性の根拠は、「相手は、そうしない(その行為を選ばない)こともできたのに、そうしなかった」「違う態度・行為をすることもできたのに、あの(最低の)行為をした」と云う人間・世界認識にあると思います。
たとえば、私たちは、虫とか魚とかが、自分の気に入らない、やって欲しくない行動を起こして、それによって自分が被害を蒙ったとしても、虫や魚にそれほど怒りません。
あるいは、今日は天気がいいから、どこかに遊びに行こうと思っていたら、突然、豪雨になった際にも、がっかりして、「あ~あ…」とは思いますが、天候とか地球とかに対して怒ることはしません。
それは、虫や地球の自由意志で、それが起こされたとは考えずに、なるべき必然で、その現象が起こったと理解しているからです。
ラメッシは、すべての人間の行動・言動も、それと同じく「自由な意志、自由な選択」は、どこにも介在していないと説きます。
親友の裏切りも踏み倒しも、そこに本人の何の自由も選択も、自分にとってもっと良い、他の別の行動を選ぶ余地も、存在していないと説きます。
この人間・世界理解の徹底によって速やかに、他人に対する「うらみ・怒り」は解けていくことでしょう。
やるべきことは、このことの徹底した考察と納得です。
「私を傷つけた人々すべてを完全に許します」との「許しの祈り」というものを目にしました。
この祈りを、自身の内面で、言葉通り遂行するには、
おそらくラメッシ的な「自由意志の不在」の認識徹底が必要だろうと思うのです。
そうしないと、怒り・恨みと云う本当の感情の微妙な抑圧となってしまうか、
あるいは、それが「高みからの見下し」と云う形に変形されて、相手との関係に残るのでは、と。
現実・現象の根本的受容、受け入れ、全托、許し、感謝―
それらすべてに「人間の心に対する決定論的理解の徹底」は関わってくるように思います。