◆ 必然の力で生起してきたことは、ことごとく受け容れていく。そう心を定めると、ネガティブな事象が二転三転しながら、絶妙な落としどころに決着していくものだ。
◆ 成功者とは、失敗から多くのことを学び取って、新たに工夫した方法で、再び問題に取り組む人間のことである。
◆ If you can dream it, you can do it.
夢見ることができるなら、叶えることができる。
◆ さやかな希望と、天の意志と、宿業に組み込まれた情報がピタリと重なり合い、必然の力で展開してくる事象の流れに身を委ね、一切を受けきっていく生き方。
◆ 未来がどうなるか、アレコレと詮索するのはやめよ。
そして、時がもたらすものが何であれ、贈り物として受けよ。
◆ 「人間は他の人間によって生かされている」ということに気づくのは難しい。
「人間は他の人間を生かすことによって生きている」ことに気づくのはもっと難しい。
まして、その「他の人間」が「愛する人」でも、「中立的な人」でもなく、正に「嫌いな人」であることに気づくのはほとんど不可能であろう。
◆ 自分に欠けているものを嘆くのではなく、自分の手元にあるもので大いに楽しむものこそ賢者である
◆ 何事にも落胆しない
あくまでやり続ける
決して断念しない
この三つが大体において成功者のモットーである。
もちろん意気消沈するときはあるが、ようはそれを乗り越えることだ。
これさえできれば、世界はあなたのものだ。
◆ 人生で最も大切なことは利益を温存することではない。
それならばかにだってできる。
真に重要なことは損失から利益を生み出すことだ。
このためには明晰な頭脳が必要となる。
そして、ここが分別ある人と馬鹿者との分かれ道になる。
◆ 自分の望みを墓石に刻むといい。
どんな風に人々に思い出してもらいたいだろうか。
自分の死亡記事を書いてみれば、正しく書けるだろう。
◆ 自分が心から偉大な目標だと思うものに身を捧げること。
言い換えれば、自分自身が廃品同様にならないうちに(自分を)心ゆくまで使い切ってしまうこと。
これこそ「自然の力」であり、人生の真の喜びはここにある。
◆ 負けると思ったらあなたは負ける。
負けてなるものかと思えば負けない。
勝ちたいと思っても「勝てないのではないか」と思ってしまったら、あなたは勝てない。
負けるのではないか、と思ったらあなたはもう負けている。
というのも、成功は人間の思考から始まるのだ。
すべてはあなたの心の状態によって決まるのだ。
自信がなければあなたは負ける。
上に上り詰めるには高揚した精神が必要なのだ。
何かに勝つためには自信が必要だ。
人生の闘いに勝つのは、必ずしも最も強くて、最もすばしっこい人ではない。
最終的に勝利をおさめるのは、「私はできる」と思っている人なのだ。
◆ 幸福人とは過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、不幸人とはそれの反対を記憶している人々である。
◆ 人生が唄のように流れている時に、楽しい気分になれるのは容易だ。
だが、立派な男とは、何もかもうまくいかないときにでも笑える男だ。
◆ ココロは天国を作り出すことも、地獄を作り出すこともできる。
◆ 自分の長所、欲求を忘れて、他人の長所を考えようではないか。
そうすれば、お世辞などは全く無用になる。
うそでない心からの賞賛を与えよう。
「心から賞賛し、惜しみなく賛辞を与え」よう。
相手は、それを、心の奥深くしまいこんで終生わすれないだろう。
与えた本人が忘れても、受けた相手は、いつまでも忘れないでいつくしむだろう。
◆ ネガティブな事象には乾杯せよ、と説いてきた。
その時には意味が解らなくても、やがて「そういうことだったか!」と納得できる日が必ずやってくる。
膝を痛めたお蔭で、歩行瞑想の新たな可能性が開けてきた。
のみならず、苦の経験が「悲」の心をどれほど成長させるか量りしれない。
◆ Where there is a will, there is a way.
意志のあるところに、道は開ける。
◆ 井戸が干上がってはじめて、人は水の価値を理解する。
細やかな出費に注意せよ。
千丈の堤もアリの穴より崩れる。
◆ 今日の生活は、すべてこれまでの決断の結果だ。
誰と時間を過ごすか、何を学び何を学ばないのか、何を信じるか、何を諦め、何を追及するか、
結婚するか、食べるか、タバコを吸うか、酒を飲むか、どんな人物になるか、職業を選ぶか。
運命を決めるのは、人生を取り巻く環境ではなく、その人の決断だ。
だから、もし心から人生を変えたいと願うなら、自分が何のために生きていて、これから何をして、何に全力投球をしていくのかについて改めて決断することが、何より大切なのである。
◆ 与えることは最高の喜びだ。
他人に喜びを運ぶ人は、自分自身の喜びと満足を得る。
◆ 愛される最も簡単な方法は、自分から愛することだ。
顧客、スタッフ、取引先と恋に落ち、彼らに対する仕事、理解、尊敬、感謝を通して
彼らの生活をより良いものにしようと心から願うことが必要だ。
◆ 「新年の目標」は立てたかい?
正月から7日以内に75%の人がその目標から脱落するという。
あなたはその一人になってはいけない。
習慣が人を創る。
やり続けよ。
◆ 不毛な状態を抜け出す方法は意外に簡単です。
「どうせ○○だ」の○○の部分をいいフレーズに変えていくだけでいいのです。
いつも通りのうんざりした表情で、
「どうせまた信用されちゃうなあ」
「どうせ上手くいって褒められるんだろう」
「どうせ私、できる人だから」
というように言ってみるのです。
最初は強烈な違和感にかられるでしょう。
ところが繰り返すうちに気持ちが変わります。
自分の発したそれらの言葉から「そういえば……」と思うような、プラスの記憶がよみがえってきます。
◆ 解決不可能と思われた障害を一つ乗り越えると、他の障害がそれほど苦にならなくなる。
くじけることなく挑戦し続ければ、たいていの人は自分の夢よりも大きなことを達成できる。
大きな夢を持つことが大事なのだ。基礎をしっかり固めて、貪欲に知識を吸収し、従来の考え方を大胆に切り換える。これまで誰もやらなかったことに挑戦するのだ。
◆ 世界が自分にしてくれる以上のことを世界のためにすること。それが成功だ。
◆ どれだけ自分を鍛えたか、だから、人よりも少しでも早く、少しでも多くの苦難を味わうことが大成するための早道である。
◆ 試験では、できない問題を飛ばしていく。人生も同じことである。
◆ 恐怖を恐怖すれば、恐怖という恵みをだいなしにしてしまう。
地獄とは、理想を実現しようとする、精神的な欲望以外にはない。
死は克服すべきものでもない。
死は、死ぬべきものだ。
今・ここにいることは、(断じて)君にできることではない。
◆ 相手に多く話させる時間が長ければ長いほど、つまり、こちらが聞き役になれるほど、相手はあなたを好きになる。
ウェズレイ大学の研究結果はこうだ。
「しゃべるな、聞け」
◆ リンカーンやサンダースはけっして運がよくて成功したのではありません。
凡人だから全人生を賭けて挑戦し、人より努力し続けたのです
◆ 国や地方自治体という大きな組織で、多数の部署と連携して仕事を進める中で、私が心がけてきたことは次の5つ。
1.批判しない、非難しない、否定しない。
2.人の話を一生懸命聞く、口を挟まない。
3.その人の名前を覚える、その人が好む話題を出す。
4.笑顔を忘れない。
5.わずかなことでも褒める、お礼を言う。
◆ 君子は交わりを絶つも悪声を出さず
絶交した相手について不満を口にすれば、相手も必ず反撃してくるはずである。そうなると泥試合になって恥をさらすことになる。人に聞かれたら、「ああ、あいつも良い奴なんですよ」と応えておけば御難を招くことも少なくなるであろう。
◆ 愛がない所に、愛があるふりをすることはできない。愛がある時に、愛がないふりをすることもできない。
◆ 人物をあれこれ調べたり研究するのではなく、むしろ調べられ研究されるような人物になりなさい。そんな生き方をしなさい。
◆ 我、常に、事に於いて悔いず。
◆ たった一冊の本しか読んだことのない人を怖れよ。
◆ 誰かの真似をして偉人になった者など史上一人も居ない。
◆ 言葉を圧縮すれば、当然重みが増す。
地球を半径2cmまでに圧縮すれば、ブラックホールができあがるように。
格言や名言が心に響くのも、省略された情報が多いためだと理解できる。
そして、「外情報」が豊富になればなるほど、メッセージの抽象度は高くなってゆくのだ。
投稿者: 霊基
8/28 キノコ、再び
8/23 自然生えのカボチャ
キノコ、三色
アレクサンダー・テクニーク関連断片
人にとって一番身近な存在は自分本人です。
しかし、一番観察しづらいのは自分自身かもしれません。
もしあなたが車の運転をしていても自分の車のタイヤが回っているのを見ることは出来ません。
しかし、車をコントロールしているのは紛れもなくあなた自身です。
車が安全に目的地に着くためには運転の技術の他にも気をつけなければならないことがありますよね。エンジンのオイル、タイヤの空気圧、ガソリンの量、その他にも沢山の部品がしっかりと機能して初めて安心して運転が出来ます。
ちょっと近くに買い物に行く、遠くにドライブに行く、サーキットでレースをする、様々な状況で必要な技術は変わりますが、どの様な時でも車の状態が悪くては快適な運転は望めません。
あなたが朝顔を洗う時、舞台の上でパフォーマンスをする時、会社でコンピュータのキーボードを叩く時、あなたの身体は快適に仕事をしてくれますか? 顔を洗って腰を痛くしたり、指先でキーボードを叩くだけなのに肩がこったりしませんか?
練習したことが本番で充分に活かされますか?
すべての動物が持っている「自分を整えうまく使う機能」、もちろん人間だってその能力があります。しかし、人間はあまりに複雑な環境の中でその機能を自分が気が付かない内にじゃまをしてしまっているのです。
アレクサンダーテクニークでは「自分をうまく使う機能」を「プライマリーコントロール」と呼び、この機能がうまく働く身体を取り戻すことを学びます。その為にまず、自分を知ることから始めます。
アレクサンダーテクニークの先生は言葉や手を使ってその手助けをしてくれます。ちょうどそれは自分の姿を確かめる鏡のようなものかもしれません。
それは視覚だけではなく、触覚、知識、様々な方法で「自分と自分自身」の対話の方法を身につける事です。
……
体をうまく使えるかどうかは、頭と首と背中との協調関係にかかっている。
この3つを調和させる能力をプライマリー・コントロールと呼ぶ。
人間はもともと、プライマリー・コントロールによって動くようにできており、三歳くらいまでの幼児は、完壁にプライマリー・コントロールを働かせている。
ところが、成長するにしたがって姿勢を崩していく。
成人する頃には、プライマリー・コントロールが正しく働いているのは、百人のうちわずか数人に過ぎない。
誰もが、体の動かし方にそれぞれ独自の癖をもっているが、特に気にも留めず、それが間違っているなどとは思いもしない。しかし、それこそが体や心の不調の原因であることが実に多いのだ。
……
ATでは、長い間に体に染み着いた癖を捨て、本来のプライマリー・コントロールを働かせることを学ぶ。
生徒は、受動的な立場でありながら、イメージするという作業で能動的にワークに参加していく。
ATの基本は「首は楽になり、頭は前へ上へいき、背中は長く広くなる」ということだが、それはあくまで、思い描くものであって、筋肉を動かしてそのように“する”訳ではない。
さらに、生徒の癖を復活させず、正しい姿勢を保ったまま動作をさせるためには、もうひとつ重要な手段がある。それが「抑制」と呼ばれるテクニックである。
コンピューターでいえば、従来の動き方の「プログラム」を実行させないようにする方法なのである。
通常私達が「座る」「立つ」といった日常動作を行なうとき、いちいち各筋肉の動きを意識したりはしない。実際には、動作のひとつひとつに何億という細胞の動きがかかわっているが、それは「座る」というプログラムに集約されているので、頭で考える必要はない。
ところがこれは各自の癖を組み込んだプログラムであるため、「座る」と思った瞬間に、体の各部は予めインプットされているプログラム通りに動こうとしてしまう。
そこで、「座る」のではなく、「膝を曲げる」「股関節を曲げる」というように、座るプロセスの1つひとつに意識を集中することで従来のプログラムを回避していくのである。
これが「抑制」である。
体に下される命令は「座る」ことではないため、体はいつもの癖を出さなくて済む。
……
姿勢を変えると意識も変わる
また、ATはボディワークでありながら、心の深い部分にまで触れてくる。
姿勢はその人の心の反映であるから、姿勢を直すことで心まで変わってくるのだ。
「正しい姿勢をとると疲れるのではないか」と考える人もいるだろうが、それは、正しい姿勢とは「気をつけ」の姿勢のことだと思っているためだ。
しかしATでいう正しい姿勢とは、最もバランスのとれた状態のことであり、どんな動作のときにも力のいらない楽な姿勢のことだ。
階段を上がっていても、ほとんど浮いているように感じることさえある。
そういった体の上手な使い方を毎日続けることで心身ともに健康になれる。
日常の動作を意識的に行なうことによって、「動く」という本来の意味を発見し、新鮮に感じることができるのである。
『世界でいちばん美しい物語』 エピロ-グ 人類の未来
ドミニク・シモネ― 150億年の進化、そしてわずか数千年の文明の果てに、私たちは今こうして存在しています。ビッグバン以来の進化によって、たえずより複雑な構造体が生み出され、私たち自身が、いわばその白眉でもあるわけですが、進化の過程というのは今なお続いているのでしょうか。
ジョエル・ド・ロネー 素粒子、原子、分子、高分子、細胞、原始多細胞生物、個体群、生態系、そして、いまやその身体諸機能を外在化しつつある人類。
もちろん進化は続いています。
しかし、今では、それはとりわけ技術的社会的進化です。
文化が生物学的進化に取って代わったのです。
― 私たちは今、生命の出現時にも比すべき転換期、大きな歴史の曲がり角に立っているわけですね。
そうです。
宇宙的、化学的、生物的段階の後、第4幕の幕が開いて、これからの人類がそれを演じていくわけです。
私たちは集団的な自己意識に到達したのです。
― 第4幕は、どのようなものになるのでしょうか。
私たちは今、新たな生命形態、全地球規模のマクロ有機体を生み出しつつあると言えます。
この有機体は、生物の世界と人間の生産活動とを包括し、それ自体進化していくもので、私たちはそれを構成する個々の細胞に過ぎません。
それは、インターネットを萌芽とする神経系を持ち、物のリサイクルという代謝機能を備えています。
さまざまな相互依存システムから成る、この全地球規模の脳が、人々を電子の速度で結合させ、物や情報の交換形式を一変させつつあるのです。
― 比喩を続けるなら、自然淘汰ではなく、文化的淘汰が、いまや遂行されているわけですね。
そう思います。
私たちの発明品は突然変異に相当します。
この技術的社会的進化の速度は、ダーウィン的な生物進化とは比べものになりません。
電話、テレビ、自動車、コンピュータ、人工衛星、これらはみな人間が創り出した新しい「種」なのです。
― そして、人間が淘汰も行うのですね。
そうです。
たとえば市場とは、発明品の種を選択し、排除し、増殖させる、ダーウィン的システム以外の何でしょうか。
ただ、生物学的進化と大きく異なるのは、人間は抽象の世界で新しい種を幾らでも好きなだけ作り出せると云うことです。
この新たな進化は、非物質化しつつあるのです。
人間は、現実の世界と想像の世界との間に、仮想現実という新たな世界を作り出し、その結果、人工の世界を探求することだけでなく、まだ存在していない製品や機械を作ってテストすることさえできるようになりました。
ある意味で、この文化的技術的進化は、自然の進化と同じ「論理」に従っているのです。
― では、複雑系の運動はまだ続いているのですね。
ええ。
ただ、物質の重いくびきからは少しずつ解放されていきます。
私たちは、いわばビッグバンの時点に再び戻ったのです。
150億年前のエネルギーの大爆発というのは、テイヤール・ド・シャルダンのいう「オメガ点」、つまり物質から解放された精神の爆縮を、そっくり裏返しにしたようなものです。
あいだの時間を考慮に入れなければ、この二つは区別できないほど似ています。
― とは言え、時間を忘れることは、とりわけ私たちのかくも短い人生の時を忘れることは簡単ではありません。
個々の人間が、自分を超える地球規模の有機体のなかに単なる細胞として組み込まれてしまうのであれば、個人にもなお未来があると言えるのでしょうか。
勿論です。
私は、人間は、まだまだ自らを改善していけると思います。
個々の細胞は、集合して社会を構成したときのほうが、孤立して生きるときよりも大きな個体性に到達できます。
マクロ組織化の段階は、たしかに世界全体の画一化の危険を伴いますが、多様化の萌芽も含んでいます。
地球がグローバル化するほど、内部の分化も進むのです。
― 生物学者の立場から、進化とか脳とか突然変異とかの言葉で現代の社会を説明なさっているわけですが、比喩を現実と取り違える危険はないでしょうか。
生物学から社会の解釈を導き出すことはできません。
そんなことをしたら、容認しがたいイデオロギーに帰着してしまいます。
そうではなく、生物学が私たちの思考に新たな活力を与えられると云うことです。
今世紀初頭には、歯車や時計など機械による比喩が盛んに用いられましたが、現在の状況を捉えるには、有機体の比喩がいちばん有効だと思います。
もちろん、文字通りに取らないとしての話ですが。
たとえば、いま形成されつつある地球規模の有機体は、私たちの身体機能や感覚の外在化であると言えます。
テレビは視覚の、コンピュータは記憶の、交通機関は足の延長なのです。
しかし、大きな問題は、私たちが、このマクロ有機体と上手く共生していけるのか、それとも寄生者に甘んじて、私たちを支えるこの宿主を破壊してしまうのか、と云うことです。
選択を誤れば、経済、環境、社会、いずれの面でも深刻な危機に陥りかねません。
― どちらの方向へ向かうと思われますか。
現在、私たちは、さまざまなエネルギー資源や情報や資材を自分のために消費し、そこから出る廃棄物を周囲の環境に撒き散らして、そのつど、私たちを支えてくれる生態系に打撃を与えています。
私たちは。自分自身の寄生者とも言えます。
先進国の繁栄が発展途上国の成長を阻むことによって成り立っているからです。
もし現在の道をたどり続けるなら、間違いなく私たちは地球の寄生者になってしまいます。
― では、そういう事態を回避するには、どうすれば良いのでしょう。地球環境の保護ですか。
大切なのは、ノスタルジックな環境保護論者が主張するように、保護区を作って、その囲い地に生物種を閉じ込めておくと云うようなことではありません。
そうではなく、地球とテクノロジー、生態環境と経済とのあいだに上手く調和を見出せるかどうかです。
危機を回避するためには、これまで語ってきたような複雑性の進化に関する知識から教訓を引き出すことが必要になるでしょう。
私たちがたどってきた歴史を知ることによって、現実に対して必要な距離をとり、自分たちのしていることに一定の方向、意味づけを与え、これまで以上の叡智を獲得することができるようになると思うのです。
私個人は、集団的知性の発展、科学技術におけるヒューマニズムと云うものを信じています。
その気になりさえすれば、私たちは人類の新たな段階に冷静に対処していけるだろうと思います。
『世界でいちばん美しい物語』 p.210-214