死の隠蔽としての日常意識

日常感覚は死の隠蔽の上にはたらく。

マンホールの上を歩く足は足下に空洞のあるのを忘れている。知っていてもそのために立ち竦むことはない。
日常感覚も死の空洞の上に鉄板を張って、落ち込むことのないものとして生きている。
人間が笑うことができるのは、死を忘れているからだ。
死の際まで死を思わないで生きることは人間の生き方のもっとも健全なものにちがいない。
たいていの人はそのように生きており、尿路の結石に苦しんだ十六世紀フランスのモラリストも、たしかそういう生き方を推奨していたと記憶する。

しかし、結石の痛みが我慢ならぬほど強くなれば、人はいやでも意志のそとにある身体というものに思い至る。
また、その痛みが生命の不安を誘い出せば、いつまでも死をよけて通ることもできなくなる。
そしてそのとき、人は、死とは身体の消滅であるというわかりきった事実の前に駭然とする。
一人の人間にとって、彼自身の死だけが唯一正真の死だが、人はいつか、目隠しを解かれて、そういう自分の死と対面しなければならない。

『この世、この生』 上田三四二

『物語 哲学の歴史』

広大な宇宙の片隅の、そのまた片隅の、地球という星の下に生きるまったく無力な人間が、その思考力だけを頼りにして宇宙全体の成り立ちを考え、そのなかで生きている自分の位置と意味とを自力で反省してみる。

これは間違いなくパラドキシカルな企てである。

『物語 哲学の歴史』

『物語 哲学の歴史 – 自分と世界を考えるために』

終わらない梯子登り

立身出世という奴は、この壊れると分っている土台の上で、梯子登りをやることなんだ。高く登れば登るほど危険なんだ。

そうと知りながら、周囲はもちろん彼自身からもこの梯子登りを強いられているんだ。

『川端康成』筑摩書房、P46

「いま、此の一つ」- 個物との出会い

私が物を買うのは、一生に「今この一個」をのみ買っているという行為の連続に過ぎないのである。

だから横に買っているのではなく、いつも縦に買っているのだとでもいおうか。

柳宗悦『新編 民藝四十年』ちくま学芸文庫、P578

人との付き合い

近づけば近づくほど、相手の色々な面がみえるでしょう。
歴史上の偉人を尊敬するのは簡単だけれど、知り合ってしまうと話が違う。
教師として尊敬できる人でも、友人になると難しい。
恋人になるとなおさらで、もし結婚なんてしようものならどうしようもない。

河野裕『昨日星を探した言い訳』P336