自我(思考、記憶、比較)があるから、(たとえば)嫉妬が起こります。
その意味では、「嫉妬」は幻(蜃気楼)のようなものです。実体がない。
しかし、一旦、嫉妬と云うものがある強度を持って成立してしまうと、それは現実に存在するもの(法)になります。苦しいです。
その嫉妬を、見ている自我なしに(思考・イメージ、変えようとする心なしに)観察するなら、その「嫉妬」だけが、実在であり、真実であり、それしかありません。
そのとき、その嫉妬と名付けられた感情そのものが、自発自展して、真理へと変容します。
それが嫉妬によって嫉妬を越える道であり、いわゆる仏教の行き方です。
投稿者: 霊基
脳につぎこめ
財布の金をすべて脳につぎこめ。そうすれば脳が、やがて財布を金で満たしてくれるだろう ベンジャミン・フランクリン
と云う格言を知って、面白く感じたのでリライトしてみました。
財布の金をすべて脳(Awareness 意識-気づきを開発すること)につぎこめ。
そうすれば脳(Awareness 意識-気づき)が、やがて財布を金で満たしてくれるかも知れないし、
あるいは、財布に金が無くても平気な自分を育ててくれるだろう。
心の活元運動
私は、瞑想の、気づき→洞察(認識の転換)へと進む道筋は、「意識の活元運動(自働運動)」なのだ、と認識しているのですが、そのことを上手く言語化、文章化するには至っておりません。
しばらく前に、こちらの文章を読んで、細かな部分では違いはありつつも、おそらく自分の言いたいことと同質のことを書かれているんだろうな、と感じました。
心の活元運動
しかし、カラダにおいても、そしてココロにおいても、質(純度)の高い、活元が起こり、そして、それを維持(継続)するのは、難しい。
脳は、即、その未知なるもの(クリシュナムルティ風に言えば、unknown)を、パターン化(既知なるもの化、known化)してしまう。
三回、同じ動きを繰り返せば、脳は、その新しい動きを、即パターンとして(知っているもの)として認識してしまうので。
どなたかの書かれていた文章断片
最初、私は「見ること」が自分の問題を解決してくれるだろうと思っていましたが、最後には「他のすべてが失敗するとき、見ることだけが残されている」と理解しました。
アレクサンダー・テクニックのプライマリーコントロ-ルに関して
「プライマリーコントロ-ル」とは、緩やかな自動運動である、とは言えないだろうか。
あるいは、不随意的(勝手に動く)な感覚が弱く、時間的に緩やかな自動運動のことをプライマリーコントロ-ルと呼んでいるとか。
自動運動の構成要素のうち、「不随意的な運動」と云うのが問題なのではなく、(なぜなら、それは、実のところ不随意ではないから、脳の普段と違う部分がメインとなって行っている随意運動だから)
自動運動は、ある種の変性意識とセットになっていること、(自動運動が起こるときには、必ず瞑想のレベル、意識のスイッチが切り替わっていること)そして、その状態で起こる(つまり日常意識ではなかなか起こらない)全体が一つになった運動・現代人の持つ条件づけを脱した動き、プライマリーなモノの顕現にこそ自動運動の価値がある、と考えてます。
目からうろこが落ちたのと
過去の文章のお蔵出しです。
……
> これは私にとっても大きなテーマなのですが、思い込みによる体験と、そうでないものの体験との違いは、どのようにして判断すればいいのでしょう?
同じことを、私の言葉で言えば、「理論の産み出した体験(ある観念に、はまり込むことによって生じた体験/経験)と、理論が抜け落ちたが故に起こった体験とを、どう見分けるか?」という問題なのですが、これでずれてませんか?
別の言い方をすれば、「眼からうろこが落ちたのと、眼にうろこが飛び込んだのと、どう見分けられるか?」という問題です。
もし、ずれてないなら、問題意識を共有できそうです、嬉しいことに。
これは、「私にとっても大きなテーマ」なのです、積年の。
我々は、通常、「理論を介在させず、裸眼で、あるがままに見るとき、世界を最も明晰に、正確に、鮮やかに見てとることができる」という瞑想宗教的通念を疑うことはしないように思います。
しかし、もしかして、人間の目はもともと(生まれたときから)ピンボケで、「理論」という眼鏡をかけなければ、世界はぼんやりとしか見えない、と云うことはないのだろうか?
その眼鏡がコンタクト・レンズ(一生、外しも、手入れもしなくてもいい)になった場合はどうか?
「眼からうろこが落ちた! おお、世界のなんと鮮やかに見えることか!」と言ってるのが、実は新手のレンズが目に飛び込んできただけに過ぎぬ、と云うことはないのか?
> 思い込みによる覚醒というものもあるのでしょうか?
> あるいは覚醒とは、説明する必要もなく、疑いようもないほど圧倒的なもので、「ひょっとしてこれは私の思い込みが創り出した幻想なのでは?」 などといった疑問が発生する余地さえないものなんでしょうか?
本人にとって、「疑いようもないほど圧倒的なもので」「疑問が発生する余地さえない」ほどの、明晰で、強烈な体験であってさえも、自分の観念が作り出した(あるいは、混ざり込んだ)“まがい物”であり得るのが、その手の体験の怖いところだと思います。
しかし、これは、簡単に扱って済ませてしまうことはできぬ問題ですね、難しい問題です。