一月一日
「人生二度なし」 これ人生における最大最深の真理なり。
一月二日
つねに腰骨をシャンと立てること― これ人間に性根の入る極秘伝なり。
一月三日
天下第一等の師につきてこそ人間も真に生甲斐ありというべし。
一月四日
逆境は、神の恩寵的試練なり。
一月五日
絶対不可避なる事は絶対必然にして、これ「天意」と心得べし。
一月七日
求道とは、この二度とない人生を如何に生きるかーという根本問題と取り組んで、つねにその回答を希求する人生態度と言ってよい。
一月八日
これの世の再び無しといふことを 命に透(とほ)り知る人すくな
これの世に幽(かそ)けきいのち賜たびたまひし 大きみいのちをつねに仰ぐなり
一月九日
「天地始終なく、人生生死あり」― これは頼山陽の十三歳元旦の「立志の詩」の一句ですが、これをいかに実感をもってわが身に刻み込むかが我々の問題です。
一月十日
幸福とは求めるものでなくて、与えられるもの。
自己の為すべきことを人に対し、天からこの世において与えられるものである。
一月十一日
一切の悩みは比較より生じる。
人は比較を絶した世界へ躍入するとき、始めて真に卓立し、所謂「天上天下唯我独尊」の境に立つ。
一月十二日
悟ったと思う瞬間、即刻迷いに堕す。
自分はつねに迷い通しの身と知るとき、そのまま悟りに与(あずか)るなり。
一月十三日
すべて手持ちのものを最善に生かすことが、人間的叡智の出発と言える。
教育も、もとより例外でない。
一月十五日
人間は一生のうち、何処かで一度は徹底して「名利の念」を断ち切る修業をさせられるが良い。
一月十六日
信とは、人生のいかなる逆境も、わが為に神仏から与えられたものとして回避しない生の根本態度をいうのである。
一月十七日
五分の時間を生かせぬ程度の人間に、大したことは出来ぬと考えてよい。
一月十八日
やらぬ先から「○○をやる」という人間は、多くはやり通せぬ人間と見てよい。
一月二十一日
実行の伴わない限り、いかなる名論卓説も画いた餅にひとし。
一月二十三日
金の苦労を知らない人は、その人柄がいかに良くても、どこかに喰い足りぬところがある。
人の苦しみの察しがつかぬからである。
一月二十五日
いかなる人に対しても、少なくとも一点は、自分の及びがたき長所を見出すべし。
一月二十八日
「一日は一生の縮図なり」―
かく悟って粛然たる念いのするとき、初めて人生の真実の一端に触れむ。
投稿者: 霊基
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ウクライナに抑留された旧日本軍捕虜が書いた絵
辻雙明著 『禅の道をたどり来て』より、古川堯道老師の言葉
「禅の事というものは、本当に解っていない者でも、結構、ごまかして書けるものだ。
しかし、また、その片言隻語を聞けば、それで、ちゃんと、その人の境涯がわかる」
「見性するときは獅子のように烈しく、悟後の修行は象のようにユッタリとやらなくては駄目だ」
「初關(最初の公案)をいい加減に透ると、後がねちゃついて駄目だ。漆の桶へ手を突っ込んだようなものだ」
「いくら参禅し、いくら公案の数を数えても、大安心を得なくては…」
「歴参(いろいろな師家を処を参禅して廻ること)をするには、師家を見る眼がなくては…」
「歴参しても、それぞれの師家の長所を学ばなくては何にもならない。師家の短所を見ていては、幾ら歴参しても駄目だ」
「世間の評判と云うのは分からんものだ。実際に行ってみると、評判で聞いていたのと、まるで違う人がいる」
「どんな公案でも、結局は、絶対か、相対か、絶対と相対が無碍円融した処かだ」
「悟ったら、悟りのサの字もない処まで修行しなくては…」
「本当に修行し抜けば、その人その人の本性に帰るものだ。酒の好きなものは酒、女の好きなものは女、と云う風にな」
あるとき、無門関の第十九則「平常是道」に対する無門和尚の評唱のなかの「趙州たとえ悟り去るも、更に参ずること三十年にして始めて得てん」の「三十年」ということについて質問すると、堯道老師は、「三十年とは一生のことだ。修行は一生のことだ」と言われた。