ブログ 『日々、刻々、流れるもの』

それは私にふさわしい

いかなる理由で、どのようなことが起きようとも、「それは、私にふさわしいことだ」と心得る。
一粒の水滴が顔に当たるのも、雀が一羽落ちるのも‥‥、全ては、因果の理法に基づいた必然の力によって生起している。
苦受であれ楽受であれ、与えられたものをことごとく受け取っていく覚悟‥‥。

気づきの光

「究極的な目標―それは簡単にできることではなく時間もかかります―は何かというと、たとえば怒り、寂しさ、絶望といったあらゆる経験がそのエネルギー共に浮上してくるままにすることです。これらのものが沸き起こってくるのを受け入れ、意識の光のもとで変容させるのです。こうした意識状態には莫大なエネルギーが存在しており、私たちは多くの時間そのエネルギーを抑圧しています。そのため、そのエネルギーを失ってしまうばかりか、抑圧のためにまた大量のエネルギーを使っているのです。私たちが徐々に学んでいくのは、怒り、寂しさ、絶望といったものの出現を許し、それがおのずから変容し、そのエネルギーが開放されていくようにすることです。この修行においてあなたは問題を解くのではなく、問題を溶かしてしまうのです。」

『哲学の教科書』P.118

非常に簡略化して言いますと、哲学とはあくまでも自分固有の人生に対する実感に忠実に、しかもあたかもそこに普遍性が成り立ちうるかのように、精確な言語によるコミュニケーションを求め続ける営み、と言えましょう。

『自己喪失の体験』 バーナデット・ロバーツ

「自己がなくなれば事物を差別相において見る相対的な心も無くなって、『それ』だけが残るのです。それは時に非常に強烈にもなりますが、何か異常なものではなく、自然で平明なので、どこを見てもあるという意味でむしろ通常なのものなのです。」
「旅が終わった後では、現在の瞬間に生きることしかできません。心はその瞬間に集中していて、過去や未来を顧慮することがないのです。そのために心はいつも一点の曇りなく晴れていて、既製の観念が何一つ入る余地もなく、観念が一瞬間から別の瞬間に持ち運ばれることも、他の観念と照合されることもないのです。要するに、考えるべきことはいつも目の前にあり、何を考えるか何を為すかに迷って停滞することがないのです。」

悪魔の証明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』
モノ・行為における存在の有無をめぐって、「ない」ことを証明することは非常に困難である。これを悪魔の証明(あくまのしょうめい、羅: Probatio diabolica)という。もともと、西洋中世のカノン法用語らしい。
「有ることの証明」は、証拠を提示すれば一瞬で完了する容易なことだが、その反面、「無いことの証明」は調査範囲が限定されたケースを除き、立証は事実上不可能である。なぜならば、この世の全ての可能性、或いは森羅万象、を完全に調査しなければならないからである。
ゆえに、公平の見地から立証責任は「ある」と主張する肯定側が負うことになっている。証明できなければ無いものと見なされる。法学では「推定無罪の原則」がそれに当たる。
もしそうでなければ、例えば「お前は魔女だ」「お前は殺人犯だ」「この世にドラえもんは実在する」などのように、どんなに無茶苦茶な主張でも主張者がそれを好き勝手に言いつのるだけで、否定する側が「無いこと」を証明しなければならないという不公平な重荷を背負うからである。
しかし、現実の論争の場では、必ずしもこのことが了解されているわけではない。

雨乞い

アフリカのある部族が雨乞いをすると、必ず雨が降る。
彼らは特別な力を持っているわけではない。
雨が降るまで雨乞いをしつづけるのだ。