ブログ 『日々、刻々、流れるもの』

匿名の後ろに身を潜めたとき… 

匿名の後ろに身を潜めたとき、人間の徳性は大きく落ち込むことを人間知として心得ているからである。
残念なことだが、闇夜にまぎれて投石する卑劣さは人間だれしも多少は持ち合わせている。
だからこそ、自分の節度をきちんと維持するためには実名で通す必要があるのだ。
私だって匿名に隠れれば、70パーセントOFFの情けない卑劣な人間に落ち込むことは保証できる。
匿名にしてなおかつ節度をきちんと維持できる人も確実に存在するし、そうした人間的に立派な人々には最敬礼したくなる。

渡辺和子さんの言葉

人は誰でも十字架と呼ぶものをいただいているものです。
いやな人、いやな仕事、苦しい人間関係、病気、自分の性格等。
それから逃げないで、それが存在することから目をそむけないで、その十字架を取り上げ、担って行くこと。
自我、プライド、怠け心といった「自分」を捨てて、ひたすら、その十字架を担って行くこと。
安楽な道を求めるよりも、強い人となることを求めしめたまえ。
自分にふさわしい仕事よりも、与えられた仕事を果たすに必要な力を求めしたまえ。
頭で許していても、心ではなかなか許せない時があるのだ。
そして私は、人間は神様と同じように許さなくてもいいと思ってる。
つまり心底から許せない苦しみ、もどかしさがあってもよい。
いやむしろ、そういう自分の弱さを受け入れること自体が「許し」の一部分を構成してるように思えるのだ。
こういうこだわりと私たちは一生の間、ともに過ごしていかねばならないのではないか。

五つの自戒

1 つらいことが多いのは感謝を知らないからだ
2 苦しいことが多いのは自分に甘えがあるからだ
3 悲しいことが多いのは自分のことしかわからないからだ
4 心配することが多いのは今を懸命に生きていないからだ
5 行きづまりが多いのは自分が裸になれないからだ

理学療法士は…

理学療法士は、
1 ”人”を診る
2 ”疾患”を診る
3 ”症状”を診る
4 ”変化”を診る
5 ”生活”を診る
6 ”人生”を診る
仕事ではないかと思う。

判断は常に盲目

人は、自分が信じている対象に関しては、その信仰の程度が深ければ深いほど、疑念を否定する方向に、事態を解釈しがちである。その結果、ますます対象に対する信仰心を強めてしまう。自分が深く信じているものを否定することが怖いのだ。それは、極めて人間的な感情の一つである。
私は、自分自身がものが分かる。ものが見える(ものを(人を)見る眼がある)という人を、自分自身を含めて信じない。
錯覚を克服するのに難しい点は、何より自身がその中にいることに気が付かないことだと思います。他の方のカキコを見て、自身の内に様々な反応が起こるのは、自身の錯覚をその人に投影して見てしまうからではないでしょうか? おそらくこの状態から真に自由な方は私を含めて一人もおられないと思います。他人からの指摘や自身の気付きによってその錯覚にはっきり気付くのは、何度体験しても嫌なものです。そして錯覚全体を認識するのに時間が必要かもしれません。あるいは全く認識しないかです。

良寛禅師 自戒の言葉

言葉の多き。
口のはやき。
あわただしくものいう。
ものいいのくどき。
おれがこうした、こうした。
人のもののいいきらぬうちにものいう。
わがことを強いて言いきかさんとする。
人の話の邪魔をする。
酒に酔いて理をいう。
あやまちを飾る。
ひきごと(引用)の多き。
好んで唐言葉をつかう。
田舎者の江戸言葉。
学者くさき話。
風雅くさき話。
悟りくさき話。
茶人くさき話。
たやすく約束する。
人にものくれぬ先に何々やろう。
くれて後、そのことを人に語る。
返らぬことをくどくど口説く。
推し量りのことを真事になしていう。
己が氏素姓の高きを人に語る。
ものの講釈したがる。
おかしくなきことを笑う。
子供をたらしすかしてなぐさむ。
憎き心をもって人を叱る