ブログ 『日々、刻々、流れるもの』

三つの現実

今回の被災に関して、三つの現実(世界)を考えます。
一つは、まさにヘドロと瓦礫の世界である震災の中心地に居られる方の現実。
次に、それを取り巻く近郊、東京などで暮らす人の現実。
最後に、私の居る屋久島などを含む、遠方、西日本などの現実、です。
(4つ目の現実として外国を入れたり、あるいは1と2の間をもっと細かく分けたりすることもできましょうが、いまは、ひとまずこう分けます)
このブログの読者数は、日におよそ50~70人、最高でも100人以下なのですが、
1の現実に居られる方はどれほどでしょうか。
私は、これから、1,2,3の、それぞれの現実を生きておられる方に向かって文章を書きます。
それぞれ温度差もあり、感じ方も違うことでしょう。
いちいち、何処を狙って(誰に届くように)書いています、とは言いません。
が、常に頭の中には、どこかで懸命に一日を生きておられる誰かが存在します。
私にも、日常があり、仕事があり、
このブログの文章を書くのに使える時間は限られています。
でも、できる限りで、このページを見てくださっている方が、一日の仕事を終え、ホッとしたいときに覗いてみて、そして「明日一日、ガンバロー!」と思えるような、ささやかな記事を書いていこうと思います。
どれほどのことが書けるか分かりません。
ちょっとした喜び、楽しみ、息抜き、「ほっ」を、分かち合うことができたら、と思います。

被災地の皆様へ お詫び

言い訳から始めさせてください。
一ヶ月前の地震発生時、私は屋久島で、10日間研修の指導の最中でした。
屋久島では何の揺れもなく、私が地震の発生を聞いたのは、数時間後、
「本州で地震があって、屋久島でも津波警報が出たいたけど、知ってた?」と云う、研修所のある農園のオーナーの方の言葉からでした。
はじめ、大したこととは思っていませんでした。
ちょっとした地震だろう、くらいにしか。
その後、徐々に、「どうやら大変なことが起こったようだ」と云う情報は耳に入ってきました。
テレビのないところで暮らしている私は、研修指導の合間を縫って、ネットの新聞記事と写真によって、その大まかな輪郭を掴んでいきました。
こちらのネット回線は不安定で、youtubeなどの動画は、つっかかってまともには見れません。
唯一、動く映像を見たのは、一週間以上経って研修者の方と温泉に行った際に、そこの休憩室のTVを通してでした。
そして今日、(先ほど)はじめて、
これまでの地震に関する映像のダイジェストのようなものを幾つか見ることが出来ました。
想像を絶していました。
そして、自らの想像力のなさを、そして共感能力のなさを、情けなく、恥ずかしく感じました。
私は、これまで、これ程大変なことが起きていたとは知らなかったのです。
現実は、私が文字情報と写真とによって想像していたものを、かるく越えていました。
とんでもないことが起きてしまったのだ、と云うことが理解できました。
これまで、浅はかな、表面的な記事を書いてきたことを、お詫びしたいと思います。
(今日までの記事は全て浅はかでした)
現状の深刻さ、悲惨さを理解しておりませんでした。
恥ずかしく思います。
もし、当地の方が読んでおられたなら、お詫びしたいと思います。
皆様にとって、これから長い苦しい戦いが始まるのだと思います。
私に何ができ、何が書けるか、明日より考えていきます。

メディア・リテラシー

「メディア・リテラシー」と云う言葉があります。
それは、情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、
その真偽を見抜き、活用する能力のことであり、
「情報を評価・識別する能力」のことです。
「メディア・リテラシー – Wikipedia」より
今回の地震~原発の問題の流れのなかで、
この「情報判別能力」の不足(未訓練)から事態を悪化させていると感じられる場面を多く見かけました。
私自身が、この能力が高いと言いたい訳ではないです。
が、私は、この能力を高めたいと普段から努力しています。
それは、研修所の指導と云う職業からして、
(それが食事法であれ、瞑想法であれ、心理療法であれ、宗教教義であれ)、まちがった情報を研修者の方に伝えることが、非常に危険であり、その間違いに対する責任も重いと感じているからです。
なので、何か詳しくないことにであったとき(知らない人の名前、知らない健康法、知らないテクニックなど)は、まずネットで調べます。
そして、その技法・人・方法・ニュースに関する、賛否両論、褒める人と否定する人の両方の意見(論拠)をざっと調べます。本があれば、図書館でリクエストして、ざっと眼を通します。
そのうえで、自分のこれまでの知識・経験・直感に照らしあわせて、自分なりの判断をします。
誰かに情報を伝える場合、各人各々が、その手順(1クッション)を挟めば、
間違った情報を拡散させてしまうと云う、これまで繰り返されてきた失敗は避けられるものと思うのです。
私自身も、それを怠って(早まって)
おかしな情報をここで紹介したことも何度もあります。
それに気がついたら、早く削除するか、
それでも駄目な場合は訂正記事を出すしかありません。
気をつけなければならない点は、
デマの記事ほど、わかりやすく、衝撃的で、パズルが意外な形でハマッタと云うような脳の気持ちよさ(意外性と云う快感)があり、色んなことを数少ない要素(真相・真犯人など)でスッキリ説明してくれ、そのスクープを、まず誰よりはやくみんなに伝えなきゃ、と云う興奮を強く惹き起こします。
それらを喚起するように、デマと云うものはできています。(感染力が高い)
デマウィルスは、メディアを使って、人の脳を介在して、自己増殖します。
またメディアが信用できない(信じられない)からと言って、
個人による情報発信(ブログ)などがより本当だという訳ではありません。
現在は、情報が足りないと云うよりも、情報があり過ぎて、どの情報を信用していいのか分からないと云うのが問題です。
選択眼を磨いていくしかないのでしょう。
この本など、オススメです。
『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書)』
著者の方のブログ
松永和紀blog
http://blog.goo.ne.jp/wakilab
一歩立ち止まって、まず調べてみること、そして冷静に考えてみることを肝に銘じたいです。
無責任なデマ情報を、(善意と興奮から)拡散させてしまうことのないよう。

震災のパノラマ写真

テレビの無い環境で暮らしている私のようなものにとっては、このようなパノラマの大画面写真(→リンク切れ 東日本大震災 – パノラマ写真館 – MSN産経フォト)が、いま起こっていることのリアリティ(現実感・真実味)を僅かながらでも与えてくれます。
私は実はスクラップ屋(解体屋)の息子でして、小学生の頃から休みの日には家の仕事をバイトで手伝っていました。
なので、自動車や建物の解体とか、倒産した鉄工所の後片付け・解体とか、そういう泥まみれ、埃まみれになってやる仕事は、得意な作業の一つなのですが、いま「【東日本大震災パノラマ Vol.55】原発から20キロ、防護服での捜索続く」を見て、憂鬱になりました。
もし、そのうち重機が来てくれて、大まかな作業をして行ってくれたとしても、これは気が遠くなるような作業です。
本当に『泥流地帯』を思い出します。
この泥と瓦礫の量と重さが、一人ひとりの被災者(この土地の持ち主)の、恐れと怒り、絶望、悲しみの、内に溜められた感情の量と重さなのでしょう。
そして、それが、この一月で溜まった、身体の、体中の、傷と痛みと疲れの、量と重さなのでしょう。

安心して眠るために

極限状態にある(男性の)方へ。
夜寝てて、寝れなくて、ホントに不安で、不安定で、確実なものが何もなくて、何かにすがりたくて…
そんなときは、横たわったまま、横向きに丸まって団子虫のようになって、自分のズボンか下着の中に両手を入れて、素手を自分の太ももの間に挟むか、あるいは金玉を握って眠るといいです。
これは、なぜか人の心を落ち着かせます。
海で遭難して救命ボートで漂流した方の話、
雪山で遭難して、最後一人生き残った方の話、
そして私自身の過去の体験から、
この行為(姿勢)は、危機的状況におかれた人間と云う生き物の
最後の自己防衛(維持)反応なのだと考えます。
これを読む以前に、既に気がついたら、その体勢で寝ている、
と云う方も居られるかも知れません。
本当に安心して、
せめて眠るときだけでも心暖かく守られて休みたいと云う方、
試してみてください。
寝る前に、腰や背中の体操をしてから眠ると、熟睡し易いです。
また「耳栓」をうまく使うと睡眠の質を上げられます。
どうにか手に入れてみてください。
必要ならば送ります。
reiki@artofawareness.jp

気づきの言葉

 人間、どん底に突き落とされたら肚が据わる。
逆境に置かれて、はじめて真の勇気が湧いてくるものである。

神道の根本は「みそぎ」と「祓え」であるが、
祓っても祓っても、又湧いてくる己が心の罪けがれには、唯々驚くばかりである。
罪けがれとの戦いは、いのちがけである。 (気づきによる「みそぎ ・祓え」)

「一日一生」などと唱えながら、とかく心がゆるみ、すべてのことが中途半端になりやすい自分を情けなく思う。
「一日一生」ということは、明日を頼まぬ生きかたである。
かって映画の題名にあったように「明日なき人々」が、私たちなのだ。

夜が更けて、じっと坐っていると、窓の下で一しきり虫が鳴く。
こんなとき「どうやら一番いけないのは自分ではないか」と思えてくる。
気ままで傲慢で、そして卑怯で、何かといえば保身を考える。
すこしでも人によく見られたいと思う。
まことに救い難き俗物である。
ふと耳にひびいてくるのは「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」という「歎異抄」の一節である。

朝々、境内や道路を掃く、わが箒の音が、われながら澄んでいるときもあれば、濁っているときもある。
どうかすると、焦りのようなものが箒の音に感じられることがある。
そんなときは「これは、いかんな、今日は気をつけなければ―」と思うのである。

無私無欲の人こそ、この世の中で最も強い人である。

言葉の布施を惜しんではならない。
ちょっとした、あたたかなひと言を、人は喜ぶものである。
殊に、老人と病人は―。
心なきひと言に、深く傷つくのも老人と病人である。

人間、ほんとうの力は、泣く涙も涸れてしまったところから湧いてくる。
森先生の、かってのお歌に「悲しみの極みといふも尚足りぬ いのちの果てにみほとけに逢ふ」
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上村秀雄 『歩むもの』抜粋
上村秀雄 『歩むもの』抜粋