科学にとっていちばん貴重なものはなにか?
相対性理論、量子力学? いやいや、そんな一つ一つの理論をとやかく言うつもりはありません。
いちばん貴重な物は科学自身に「エラー修正機能」が組み込まれているということです。
そして似非科学と決定的に違っているのは、
本当の科学のほうが、人間の不完全さや、誤りやすさをずっと認識している点です。
むしろ「人間は間違うことを断固として認める」ぐらい積極的な機能をもっているのです。
ですから、誤りを含んだ科学と似非科学はまったく異質のものなのです。
人間というものは、絶対に確かだといえるものが欲しくてたまらないのかも知れない。
しかし、確信の誘惑を断ち切るのは難しい。
そもそも科学がいざなう先にあるのは、ありのままの世界で、こうあってほしいという願望ではない。
よく、科学は難しすぎる、複雑だと嫌われるが、科学が複雑で難しいのはたいていの場合、現実の世界が複雑だからだ。
それ故、今の時代に科学的思考は必然である。
なにも科学者になれと言うのではない。
科学的な考え方を広めることが大切なのだ。
例えそれが我々にとって、好ましくない結果(例えば、我々の祖先がサルであることを未だ拒否を示す人はゴマンといる)をもたらそうともだ。
「カール・セーガン 科学と悪霊を語る」より。
ブログ 『日々、刻々、流れるもの』
ガンガジ 貴方の中に秘められた宝石
もしも、あなたにこうした感情の重なりを最後まで徹底的に経験する意思があれば、あなたは最終的には底なしの深淵に見えるところに辿り着きます。
この深淵は、無、空虚、無名と理性が認識するものです。
これは非常に重要な瞬間です。
なぜなら、完全に何ものでもなく、誰でもないことを進んで受け入れるということは、自由になることを積極的に受け入れるということだからです。
何層にも重なった様々な感情はすべて、無の経験、すなわちあなたが自分だと思っているものの死に対する防衛手段です。
いったんその防衛手段が崩れ、扉が開いてしまうと、恐れていた無と完全に向き合うことができます。
この対峙こそ真実の自己探求によってもたらせれる啓示であり、それによってあなたの心の真ん中にずっと隠されていた真実という秘密の宝石が露にされます。
見つかったダイヤモンド、それはあなたです。
ルパート・スパイラ
ルパート・スパイラのインタビュー ≪ resonanz360から
私たちの見かけ上の客観的な経験は、思考と感覚と知覚とで構成されています。それはマインド、身体、世界です。
気づき(Awareness)が考え「として現れる」とき、それは思考になったように見えます。気づきが感じるということ「として現れる」とき、それは身体になったように見えます。そして気づきが知覚ということ「として現れる」とき、それは物体、他者、世界になったように見えます。
考えがおさまったとき、その見かけ上の客観的な部分(思考の部分)は消えますが、その実体である気づきは残ります。その時を超えた瞬間(マインドがそこにないために時を超越しています)、気づきはそれ自身をありのままに味わい、それは思考という見かけ上の客観性を仲介していません。この経験は理解(Understanding)として知られています。
感じることが止まったとき、その見かけ上の客観的な部分(感覚または身体の部分)は消え去り、その実体である気づきが残り、その気づきはそれ自身を愛(Love)または幸福(Happiness)として知ります。
そして知覚することが止まったとき、物体、他者、世界は消え、それらの実体である気づきは残り、それはありのままに自身を知り、物体の見かけに曇らされることはありません。これが美(Beauty)として知られる経験です。
言い換えると、理解、愛、幸福、美は、ひとつの同じ経験、気づきの現前、自己の存在(Being)の認識につけられた異なる名前です。
理解と愛を通る道(ジニャーナとバクティの道)についてはこれまでにも沢山書かれていますが、知覚を通じての道はあまり触れられることがありません。知覚の道または美の方法が芸術家の道です。
それは、すべての知覚の実体が気づきで作られていることが明確になる道であり、それを通してそのことが表現される道です。
すべての見かけの物体は気づきからつくられているのですが、相対的なレベルでは、このことを明らかにすることが物体の機能であるとは言えません。たとえば、やかんの目的はお湯を沸かすことであり、経験の本質を明らかにすることではありません。ただ、さまざまな物体の中に一つのカテゴリーがあり、そのカテゴリーのものは経験の本質を明らかにすることを特に意図して作られたものであり、そうしたものを私たちは芸術作品と呼びます。
芸術作品の機能は、経験の本質を指し示すだけでなく、そうした性質を実際に明らかにすることです。セザンヌが言ったように、その機能は「私たちに永遠(Eternity)を経験させる」ことです。
人類の創造的進化と精神病
人生のリセット、リプレイ
今日から、今年初めの10日間研修始まり、また昨日、研修の問い合わせが一つあり、引き続き、22日から次の研修に入ることになりそうです。
今年は、20代前半の若い方の内観研修の二連発で年を開けることになりました。
末期のターミナルケア、人生の総決算としての内観も非常に価値あるものだと考えていますが、これからの将来がある若い方たちが、人生の方向を見定めるべく内観を行なうと云うのも、非常に価値あることだと感じます。
内観は、真剣さをもって臨めば、必ずそれに答えてくれる「確実な」技法ですので、
多くの方にその機会を持って欲しいものだと思います。
話は変わって、
昨晩、突然、25年振りくらいに、中学生時代に一番仲の良かった友達からメールがあり、懐かしさに何度かメールのやり取りをしました。
ネットをしていて、たまたま私のサイトに眼が止まったと云うことらしいですが、彼の方は、郷里の広島で結婚し、二人の子供の親父をやっているそうで、二十五年の時間の長さ・速さに、何とも言えない感慨が湧きました。
思うに、
「平凡な人生」を生きている人なんて、誰一人居らず、
それが自分には慣れた事、慣れた暮らしだから平凡だと錯覚するだけで、
それぞれの人が、それぞれの人生の成り行きで、それぞれの展開を(選べない形で)選び、
そのなかで、そうあるしかないかたちで、命を燃やして(あるいは淡々と、あるいはウンザリしながら)生きているのだろうな、と、先日、何年か振りに再読した本、『リプレイ』も影響して、そんなことを考えました。
この本は、擬似「内観研修体験」を引き起こしまして、なかなか面白いです。
集中内観研修に興味があられる方、ぜひ読んでみてください。
勿論、良い小説の常として、私のとは全く違う読み方も許す作りになっています。
小説としてはかなりの出来映えだと思います。
天命に安んじて人事を尽くす
「人事を尽くして天命を待つ」という自力の心を、
清沢満之師は「天命に安んじて人事を尽くす」と言い換えたという。
今を生ききれない人間が未来に生きることはできない。
死を前提にして今を生ききる。
自らの煩悩と無力さを知った時に、人事を尽くすことができる