ブログ 『日々、刻々、流れるもの』

気づきの言葉

我々は尋ねる、
「如何にして自己中心はなくなるのか? そのために私はいったい何をすればよいのか? どんな修養、どんな犠牲、どんな大それた努力をしなければならないのか?」と。
しかし、そういった意味で我々にできることは何一つない。
ただ自己中心な心の動きを無選択に観察するだけだ。
それも観察者としてではなく、ただ選択者なしに観察するのである。
すると、あなたは言うかもしれない、
「そんな事は私にはできない。私は常に過去に囚われた目でしか物事を見られない」と。
それなら、過去に囚われた目でしか物事を見られないという事実を自覚し、それに留まりなさい。
『クリシュナムルティ・水晶の革命家』高岡光 p11-12より

空虚感や孤独は、自己中心的な活動をする <私> という心によって作り出されたものなのです。
ですから、その心が中心を持たずに見つめる時、自己中心的な活動は終わります。そこに淋しさはありません。
そのとき心は自由自在に働きます。執着と無関心の全構造、苦痛と快楽の運動を見つめるとき、どのようにして、<私>という心がひとりで砂漠を作り出し、また、ひとりでそこから逃げようとしているかが解ります。
<私>という心が静まるとき、砂漠も逃避も消え去るのです。

この古いもの、結晶化したものの粉砕は、一日で果たせるものではありません。絶え間ない、無選択の気づきがなければならないのです。
『クリシュナムルティの生と死』 p148より

あなたは自我を解放できない。
あなた自身がこの不幸の根源である以上、<自我>を滅する方法を求めていては、
他ならぬ自我の滅却過程で、あなたは別の<自我>を作り上げてしまうであろう。
『クリシュナムルティの瞑想録』p47より

希望(欲望)と絶望

今年は屋久島も雪のお正月で外仕事ができず、
久しぶりにゆっくりと休んで、パソコン内の整理などしております。
あまりお正月と云う気もしないのですが、
明けましておめでとうございます。
今年も、よろしくお願いいたします。
今年は、研修所サイトの文章つくりに本腰入れたいと思っております。
整理していた資料の中に、少林窟道場時代の先輩の幽雪さんの書いた『アンチ菩提心論』と云う文章が出てきたのですが、その末尾の「絶望論」と云うのに眼が留まりましたので紹介してみます。
この文章は、かって幽雪さんのサイトに置かれていましたが、
いまはどうも削除されているみたいです。
全文アップはおそらく喜ばれないと思うので最後の部分だけ載せます。

◆ 絶望
最後は、これだ。
過去を引きずり、未来を当てにしていたら、
どうして、今、ここに落ち着くことが出来るだろうか。
今、ここに落ち着いていないで、どうして修行になるだろうか。
過去に自分が得た心境やら成した業績など何の役にも立たない。
そんなものは人の記憶の中で印象として残っているに過ぎない。
しかし、それにすがろうとしてしまう。
そこに自分の存在価値を認めようとする。
過去で自分を守ろうとする。
泡をかき寄せて、自分の周りに積み上げることで、
城壁を築こうとしているかのようだ。
しかし、今、単でなければ、単ではないのだ。
過去に単であったことは、もう存在しない。
未来に悟ることを期待することは、人を簡単に迷わせる。
何かちょっとした事で、パッと悟るのではないか、と思ってしまう。
徹した時に見性する、と聞けば、
何かそんな事件が起きるのではないかと思ってしまう。
未来に期待する思いが、そっと忍び込む。
未来の時点に特別な時を設定してしまう。
未来の悟りと、悟っていない今が峻別される。
今は、これから悟る今となり、悟っていない今となる。
悟っていない今に落ち着ける訳が無い。
今が、抜ける。
自己の内を見詰めてみれば、
そこには確かなものなど何も無く、
愚かで、小さな私が、恐怖におののいて、
過去にすがり、未来に期待しようとしているに過ぎない。
私は、それだけのものだ。
そんな私に悟りは、無い。
私に悟りはあり得ないのだ、と絶望した時、
悟りからの解放があり得る。
悟っていなくてもいいんだ。
もう悟らなくてもいいんだ。
過去にすがることもなく、未来に期待する何ものもない。
全てを失った者には、今だけが残る。
果てし無く、今だけが在る。
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注)文中、「単」とは、「ものと自分がひとつになっていること、その状態」のこと、いわゆる一枚になっている状態のこと、です。

「生きていること」と「勉強・学習」

近くの図書館に寄った折に、たまたま手にして、軽い読み物として借りてみた本なのですが、昨日パラパラ読んでいて、面白いなと思う一節があったので紹介してみます。
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「伝統的な未開社会には学校はなかった。
躾、労働、教育は分離せず、生きる場がそのまま教育の場となってきた。
長い人類史の中で学校がなくて困ったと云う話は聞かない。
むしろ、学校ができたことで、学習と労働とが分離したために、労働とは無関連の純粋な学習が生じた。
目的も見えないままに、とにかく何かを学ぶという空っぽのシステムが誕生したのだ。
この純粋培養された「学習」を維持するために作り出された素晴らしい発明品がある。
子供たちをある種のゲームに駆り立てる試験制度という複雑な社会制度だ。
この試験制度に適応するために、とりわけ日本の教育で重視されるのがIQだ。
だが、ニューギニアの原住民からも分かるように、人類が生き延びるために育んできたのは、意欲・計画性・想像力といった能力で、IQは、その基礎条件にはなるが、能力の高さ自体はIQとは無関係なことが分かっている。」
『自給再考』(農文協)から「ポスト石油時代の食料自給を考える―人類史の視点から」吉田太郎

GotoGoの「見るコト」

ブログの紹介です。
記事中の「注意」を「気づき」に替えれば、私が感じていることと一致すると感じました。
GotoGoの「見るコト」
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やはり、「見るコト」が核心であると思う。
無選択かつ完全なる注意が、今ここに在るかどうか?
私が毎瞬間死ぬコトによって、完全に生きているかどうか?
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見るコトを核心に置くのは、注意(attention)の魔法を確証するからである。
見れば終わるのである。
見れば解決するのである。
部分的で不完全な注意が、「問題」を創っているのである。
無選択かつ完全なる注意は、「問題」をその根底から解消する。
そして、無選択かつ完全なる注意は、あらゆる「幻想」に対して死ぬコトであり、
そうして、今この瞬間を「ありのまま」に生きるのである。
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注意が部分的で不完全であるコトと「分離した私」(エゴ)の顕われは同じコトだとわかった。
注意が部分的で不完全であるコトから、「(心理学的)時間」が生じ、「問題」が生じる。

しかし、「分離した私」(エゴ)を前提にした「努力」、注意が部分的で不完全であるコトを「問題」として「対象化」し、それを「修正」しようとする「努力」は、その「問題」を生じさせている同じエゴの運動の次元にある。

無選択かつ完全なる注意が在る時、私性(I-am-ness)は「ありのまま(What is)」と等化し、ただ歩く事さえも新鮮になる。

禅の法語、あれこれ

禅苑随感録(抄) 井上義光老師

10年ぶりくらいに眼を通しましたが、言うべきことはきちっと言っている、芯のしっかりした明晰な法話だな、と改めて感心しました。
研修所HPの文章、「気づきのなかの生―苦しみから気づきへ」のなかで、「水平的な道と、垂直的な恩寵」と云う表現で、法の説き方に「垂直的(頓悟的)・水平的(漸進的」の違いがあると書きましたが、飯田とう陰老師を初代とする少林窟道場は、禅の中では「水平的」な切り口での道の示し方が強く出ていて、そこら辺が(義光老師の実弟である)井上義衍老師とその門下の老師さんたちとの違いで、そこで話がゴチャゴチャになってしまいます。

ただ、久しぶりに読んで、少林窟の修行指南、道の行程の説明は、修行者に親切である、とは感じました。改めて、禅は、やはり良いな、魅力的だな、と感じたことでした。

◆ 井上義衍老師の法語
現代の禅匠としては越格の人であったと思います。「昭和の盤珪さん」とでも呼ぼうか。

井上義衍老師語録

禅と良く似た、ダグラス・ハーディングさんの知覚実験。
これもかなり「垂直的」です。直指端的。

私たちの本質とは何か?

少林窟 大智老尼の法語

只管工夫
いろは法語(抄)
照庵大智老尼語録断簡
少林窟道場の大智老尼の法語を久しぶりに読みましたが、改めて、格調高い、価値ある法語であると感じました。
法話の中に「只管工夫」「即念工夫」と言う言葉が繰り返し出てきますが、この「只管」「即念」が、私の言葉で云う「気づき」であり、「気づき」が定着し、働いている心の状態と言えます。
クリシュナムルティ風に言えば「分離も、選択も、言葉も無き、気づき」のことであると。
大智老尼の、只管を「目的」「手段」「結果」の三つの段階に応じて説く説き方(指導)は、修行者にとって非常に親切なものであると感じます。