放射能関連の断片アレコレ

人には、何の薬効もないものでも「薬」と思って呑むと実際に効き目が出るという「プラセボ効果」も発現しますが、その逆の「ノセボ効果」も発現することが知られていまして、「被曝したんじゃないか」「今食べたものは放射能に汚染されていたんじゃないか」と怖がる事によって、実際にはなんでもないのに健康を害する可能性があります。
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・「リスクはわからない」というときの『わからない』は、青天井ではなく、検出しがたい差という意味である。
・「ただちに健康に影響しない」の『ただちに』は、遅発性ではなく、その原因だけによる差が検出しがたいという意味である。
私の家族も、ニュースでこの話題が出るたびに「大変、どうしよう」というので、その都度説明をしてます。
なかなか身に付かないというか、正しい言葉の理解はしてくれないのですが、地道にやってます。
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もちろん、人間はリスクの大きさだけでは判断しません。
たとえどんなに小さなリスクでも、放射能は嫌だと言うのなら、それは個人の選択の問題です。
同じがんになるのでも、放射線が原因だと我慢できないと考える人もいるかもしれません。
しかし、定量的云々と言いながら、小さなリスクを大きなリスクと勘違いしているのは不幸なことです。
今までの経験では、その両方がない混ぜになっている人が多いです。
リスクは気にするほど大きくは無いと説明すると、リスクの大きさの問題ではないという答えがしばしばかえってきます。
しかし、更に話を続けると、説明を信用していないだけで、リスクは大きいと思っているようなんですね。
それでいて、リスクが小さいことを保証して欲しいようでもあります。
でも、そんな補償は信用出来ないというのですから、どうしようもありません。
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基準値を超えれば危険というのは世間によくある誤解です。
基準値とは,管理のためのもので,超えたからといって危険というのでは困ったことになるのは少し考えれば分かります。
基準値以下は合法ですので,規制出来ません。
危険な状態ぎりぎりまで規制出来ないというのでは,非常に危うい綱渡りの状況になってしまいます。
危険な量にはそもそもバラツキが有りますし,個人差や測定誤差もあります。そのため,安全率というものが必ずあり,食品関係では100倍以上となっています。
基準値を超えれば,何らかの措置を行い,現実に被害が出ないように管理します。
原発事故以前から,食品の基準値違反が時々報道されていて,「直ちに健康への影響は無い」というフレーズは使われていました。
それから,基準値は安全とは関係なく,現実的に管理出来るかという観点からも決められています。
伝統的に食されてきた食品は,安全率が低いものが有ります。
そうしないと,食べられなくなるからです。
ひじきなどがその例です。
それに対して,放射線は平常時では現実に管理出来ますから,非常に安全率を大きく取って有ります。
そのため、事故の時は基準値を超えるという事態になりやすいのですが、それはそれだけ管理が厳しいということだと思います。
もちろん、基準値を超えても良いと言っているのではありません。
余裕を持った状態を保つために、管理上の何らかの措置が必要になりますが、健康被害が出るかどうかは、基準値超えの程度次第です。
具体的に、基準値と実際に健康への影響がある量との関係がどの程度かについては、次の松永和紀さんの記事などが参考になると思います。事故から間もない3月24日の記事です。
「適切に怖がりつつ安心して食べるために~自分で計算しよう!」
http://blog.goo.ne.jp/wakilab/e/bd31dc95883dafbff426c3eca673eb24
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不安の増幅は現実の認識をゆがめる。

気づきの言葉

美しく話すことは、如何に美しく聞くか、と云うことである。
つまり、話し上手は聞き上手で、言葉をかえれば、美しく話すことは、如何に美しく黙るか、に尽きる。
そして、これが非常に難しいのである。
できるだけ新鮮な、手垢のつかない言葉で話すこと。
「言葉を選ぶ」、それが、その人の話を豊かにもすれば、貧しくもする。
大切なのは、普通の(平凡な)言葉で非凡なことを表現できうるかどうかである。
我々は、過去を知らないばかりに自分の生きる時代を中傷する。
しかし人間は、かれこれずっとこんな調子できたのである。
朋友の間、悪しきこと、過ちあらば、面前で言うべし。
陰でそしるべからず。
その場に居ない人を非難しないことである。
汝の道を行け。しかして後は人の語るに任せよ。
精神一到、何事かならざらん。
二つの「シ」
・志の「シ」
・師の「シ」
我が道、一を以って之を貫く。
学道の人はすべからく貧なるべし。なまじ財多くなれば、必ずその志を失う。
この道より我を生かす道なし、この道を行く。
事、必ず成さんと思わば、他の事の破るるも痛むべからず。
人の嘲りをも恥ずべからず。
万事に変えずしては一大事は成るべからず。
いやしくも「生」をこの世に受けた以上、それぞれの分に応じてひとつの「心願」を抱き、それを最後の一呼吸まで貫くことである。
人生とは、リハーサル無しの公演のようなものである。
下足番を命ぜられたなら、日本一の下足番になってみることである。
そうすれば誰も貴方を下足番にはしておかぬだろう。
一、心中、常に神を含むこと。
一、心中、絶えず感謝の念を持つこと。
一、常に陰徳を志すこと。
「応して蔵せず」(何か起きたら直ちに対応して、すぐ流すこと、心に溜めないこと)
顕微鏡で花の構造を仔細に点検すれば花の美しさが失われてしまうと云う考えは、途方もない偏見(勘違い)である。
花の美しさは、かえって、そのため深められる。
ことわざ・格言は、自分の人生で実際に経験してみるまでは、ことわざ・格言にならないものである。

気づきの言葉

博く聞いて道を愛すれば 必ず会し難し
志を守って道を奉ずれば 其の道甚大なり (仏説四十二章経)
人の悩みのすべては、一人きりで静かに部屋に座っていられないことから生じる。 パスカル
修行に於いては、これまで成就ということなし。
成就と思うところ、そのまま道に背くなり。
一生の間、不足不足と思いて、思い死するところ、後より見て、成就の人なり。
純一無雑に打ち成り、一片になることは、なかなか一生に成り兼ぬべし。
混じり物ありては、道にあらず。 『葉隠』

研修所、移転のお知らせ

3月末で終わる研修を最後に、屋久島を離れ、
研修所を宮島に移すことに決めました。
このことを決断した理由の大きなひとつとして、ここのところ、実家の母親の具合が、あまり良くないと云うことがあります。
私は、18歳で家を出て、それから現在に至るまで、基本的に年に1,2度、何かのついでの時にちょっと立ち寄ると云う以上のことはしてこなかったので、もう先がそう長くないのであれば、最後の期間くらい、そばにいてあげようかな、と云う気になりました。
ですので、屋久島で研修をお受けできるのは、あと、2月の前半だけとなります。
また、移転の支度の為、3月20日~4月15日前後まで、お休みします。
移転先は、観光地である島の東側ではなく、西側の御床浦というところで、
ウチの実家の唯一残っている持ち土地です。
現時点では、家も電気もない山のなかの静かな土地で、
すべてはこれから一つずつ作り上げていかなくてはならないのですが、
そこに残る人生賭けてみよう、と云う気持ちが、やっと定まりました。
詳細は、追ってお知らせいたします。

一日は一生の縮図なり

「一日は一生の縮図なり」、
かく悟って粛然たる念いのするとき、はじめて人生の真実の一端に触れむ。
森信三 『一日一語』 1月28日

盤珪禅師の言葉

師曰く「古今参学者、一回入所なしという事なし。然れども其の所に休すれば、少を得て足れりとす。此後大親切あらざれば、法眼円明成就しがたし。」
余曰く「然れども吾今法に措いて疑いなし。此上いかんとも力を著くべき様なし。」
師曰く「疑う事も無く問う事も無き田地に到る事は安ひ、法が甚深也、智恵が甚深也。到れば到る程深し。」