そこで、このように考えます

そこで、このように考えます。
「相手にも、そのような性格で生きる権利があります。
ただ私の性格に合わないんだからと思ってとやかく言うと、私がわがままで、相手の権利を奪って相手を邪魔している。
相手は相手の生き方で生きているし、私はそれを邪魔だと思わないで淡々と私のやり方で生きてみます。互いに自由ではないか。」
そう思うと怒りは起こらないし、人間の尊厳を守る人にもなっているのです。
それで落ち着いていられる。
周りは少々うるさいのに落ち着いていられることは忍耐の修行になるのです。

「名付け」への衝動

名付けられた色の知覚は右脳から左脳(言語野)にシフトする
色の名前を学習することは、色知覚を取り扱う脳の部分を変える。
犬やネコのシルエットでも、似たような現象が起こる:子どもが動物の名前を学習すると、左脳が処理するようになる
名付けることによって、脳内処理のおさまりどころが全く違ってくる。
多くの文化圏で、未知の事物にたいしてしきりに名を知りたがり、名が判明するとそれだけで気がすむヒト傾向が観察されるのは、この手の「脳内処理がラクになった」感が関係するのかもしれない。

他者の心、志向的対象と宗教

デネットの考えでは、私たちが他者の心を了解することができるのは人間の志向姿勢(intentional stance)がうみだすユーザー・イリュージョンによるものである。
進化のプロセスを経て形成されたこの志向姿勢は、しかし、意志を持たないランダムな対象に対しても、志向姿勢を投影することでそこに他者の心を読み取ってしまう(心理学者バラス・スキナーによる鳩の実験を参照)。
志向的対象を形成するこの効果のおかげで私たちは、シャーロック・ホームズのように実在しない架空の人物に対してもあたかも彼が実在したように振舞うことができる。
この志向姿勢が、制御不可能な対象である自然現象に対して投影されたときに発生する副産物が、神という概念なのではないだろうかとデネットは推論する。

誰かの言葉

人生とは、人前でバイオリンを弾きながら、しだいに腕を上げてゆくようなものである。
人間の仕事というものは、それが文学であれ、音楽であれ、絵であれ、建築であれ、そのほかなんであれ、常にその人自身の自画像である。

癌― 祝福された病

癌は、人間の掛かる最も悲惨(苦痛の多い)な病と言われると同時に、最も幸せな病とも言われています。
なぜ、幸せなのかと云うと、交通事故や多くの病は、予期せぬときに、予期せぬ形で、心の支度などできないままに死んでいきますが、しかし、大抵の癌は、自分が、後どれくらい生きられて、どんな状態で死んでいくかを確実に知ることができ、自分の今生の外面的な整理と内面的な整理を充分に済ませ、「そのとき」を万全の体制で迎えることができる病だからです。
ある程度、病状が進行している状態であれば、もう直ることは考えずに、(なぜなら、治癒を期待して生きていると、急激な病状悪化のときに、何時間か以内に命が尽きることの覚悟と受容ができずに、慌ててしまうからです)、いかにして、この自分の人生の終わりを満足して受け入れ、足掻かずに旅立っていけるかだけを考えたら良いと思います。
その心境になれるまでの時間的猶予が欲しいなら、化学療法を受けることでしょう。
が、化学療法を受けるにしても、生き延びられると云う期待と欲望は捨てた方が良いと思います。
そうして、全面的に死を受けられたとき、もし、そうなるのが宇宙の必然であれば、あと僅かの時間を与えられるかも知れません。
しかし、それとても何十年かの話で、最後には、同じ覚悟を迫られる時期が来るのは私たちも同じです。
一番良いのは、集中内観を受けて、その結果、感じ、考えたことをやり終えてから亡くなることだと思います。
ケン・ウィルバーの『グリース&グリッド』と云う、奥さんの癌闘病体験記(最後は亡くなられます)がありますが、なかなか良い本でした。
あと、瞑想系、精神世界系、自然食系の人たちは、癌の化学療法をひどく悪く言いますが、私には、現実からずれていると感じられることが多いです。
実際には、癌に詳しい良い病院で、腕も心も優れている良いお医者さんに現代的な最新の治療を受けるのが生存率的には一番高いでしょう。
その上で、断食や自然食をしたり、瞑想したりを組み合わせられるのが最高ですね。
枇杷の葉温灸は、確かに効くと思いますが、それは癌の初期の治療の一環として以上の効き目はなく、末期の状態では、せいぜい一時的に症状の不快さを抑える対症療法的な意味しか持ち得ないと感じます。それをしていても治癒の確率は低かろうと。
また、「生き延びるつもり」でいると、急に病状悪化して、死ぬかもしれない、となったときに、とても慌てて、心がちりじりのままで死を迎えることになるのは怖いですよね。
死を覚悟していた場合、そのときになっても慌てないし、もし生き延びれたときには、より良い生を生きられます。第2の人生として。
内観は常に「死を見つめての内観」で、いま死んで大丈夫か、覚悟はできているか、を問うものですが、そうであるからこそ、内観後、生を大事に、これまでと違うものとして生きていけるのだと思います。