人は不合理、非理論、利己的です。気にすることなく人を愛しなさい。
あなたが善を行うと利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
気にすることなく善を行いなさい。
目的を達しようとする時、邪魔立てする人に出会うでしょう。
気にすることなくやりとげなさい 。
善い行いをしてもおそらく次の日には忘れ去られるでしょう。
気にすることなくし続けなさい。
あなたの正直さと誠実さとがあなたを傷つけるでしょう。
気にすることなく正直で誠実であり続けなさい。
あなたの作り上げたものが壊されるでしょう。
気にすることなく作り続けなさい。
助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく助け続けなさい。
あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。
蹴り落とされるかもしれません。
それでも気にすることなく最良のものを与え続けなさい。
マザーテレサ
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思考=自我の食べ物(識食)
これも、どなたかの文章。
私自身、毎日毎時間、思考で一杯ですが、思考が「自我」の栄養分という感じですね。
もちろんここでいう思考は、筋道だった思考ではなく、日常生活の大部分を占める、とりとめもない雑念のことです。
必要もない同じような思考を繰り返すことで「自我」がますます強化されていく、そんな傾向がありそうです。
しかし、そういうとりとめもない思考も自我の根強い欲求なので、それを無理に停止するのではなく、思考が湧く度に気付いていく、そんな風にできればよいと思っています。
あと三ヶ月で死ぬとしたら
これも、どこかで見つけた文章です。
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死ぬことをいつも考えていたい。
死というのは、本質的に生という視点からしか存在しないのだから。死とは生を映し出す鏡としての言葉に過ぎないのだから。
死ぬことを考えると、自分の生が浮き立つ。自分の持っている変なわだかまりが消える。いったい何を僕はそんなにこだわっていたのだろう。
自分の思っていることが、何が足りないのか、何ができるのか、何が楽しいのか、何が無駄なのか、はっきりする。
そう、僕は自分にとって大事なもの以外を求めてもいない。でも、そのようにはっきりと行動もしていないし、時間もとっていないし、何にもならない余計なこともしている。
今起ろうとしている新しい人間関係のなかでも、僕はなんて時間を無駄にしているのだろう。
明日がある、次こそは、そのうち、なんて思いながら、時機を期待している。
もちろんいつかはそういう時がくるにしても、なにも起ることをわざわざ先延ばしにしなくてもいいのだ。
結局、一期一会なのだろう。
明日死んでもいいように、決して死ぬときに「~しておけばよかった。」などということのないように、いつも生きていたい。
自分がしたこと、自分に起ったことを、いっぱいに感じていたい。
与えられていたものを見過ごすことのないよう、十分に感じていたい。
明日死んでしまっても後悔しないように生きること。
とてもシンプルなルールだけど、これでほとんど決まってしまうし、これがなければ人はついつい余分なことばかりをしてしまう。
殆どの人は死ぬ間際になってはじめて自分の人生を振り返るものです。
そしてあとどれだけ生きられるということになって始めて人生の自分にとって重要なものに順位をつけようとするのです。
でも、その時になってからでは大抵の場合がもう遅い。
殆どの人はなかなか自分を見ようとしないし、心の中にはたくさんの不安や壁があるから、そんな状況にでもならないと人は
「私は幸せです。」「好きなことをやっている。」「でも~だけはやらなければいけない。」「~は人生にとってとても大事だ。」と自分でも気づかずについつい嘯いてしまう。
達成しえないことはあります。でももし全力で取り組んでいたらあなたはやれることはやった。
だから口惜しい後悔はしないはずです。
ただ「明日死んでしまうとしたら。」といつも考えるいう単純なことで全てが変わります。
世の中には様々な成功哲学の書籍や方法が出回っていますが、人生を劇的に変える方法があるとしたら、本当にただこれだけではないかと思います。
あとの細かい情報はオマケみたいなものです。
でもついつい忙しくてそんなこと考えていられないという人は、エリザベス・キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」シリーズまたは他の著書を読んでください。そうしたら実感が湧くでしょう。
あなたも死んでいく人の一人であることには疑いがないのです。
どんな方法でも、全ての人に有効という方法はほとんどありません。なぜかというと人はそれぞれ違うからです。
でも一つだけ変わらないことは、あなたも死ぬ、ということ。
だからこの方法はすごく有効なのです。
そして、この言葉からあなたは他人ではない自分の言葉を聞くことになるからです。
それは自分が自分にするアドバイス。自分が自分に示す道です。だからこれは有効でないことがあり得ない。
「死」とは生の鏡でしかありません。死というのは本当はあなたにとっては存在しないのだから。
だから自分の死についていつも考えていることは、自分の生/命を燃やす方法になるのです。
人は自分が死ぬことを実感してはじめて、本当に生きることを始めるのでしょう。
もし明日死ぬとしたら、今この瞬間瞬間がいかに大事なものなのか、今自分の持っているものがいかに貴重であるか、今自分の会っている人がいかに大事な人であるか、わかってくるのです。とりあえず、いやきっとこれ以上、なんていっていられくなってくる。妄想の中で生きていくことはできなくなる。
祈りには果てしない力がある
これは、どこで見つけた文章なのか、いま検索してみても分からないのですが、非常に良い文章だと思いますので紹介してみます。
昨日から自分のパソコン内のファイルの整理をしており、お蔵出しの文章が続きます。
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祈りには果てしない力がある。
言葉に力があるように。
言葉に力があるのは何故か。
それはそこに人の強い思いや思念が宿るから。
その強い思いや思念に力があるのだ。
それ故、たとえ一言であろうとも、
人を殺すことができ、人を救うこともでき、己を苦しめることもでき、己を癒すこともできる。
そうして強い思い・思念のこもった言葉は、ひとたび発せられるやいなや、力を有することになる。
その言葉を受ける取る者は、その言葉を通して、そこに宿る相手の強い思い・思念を知り、その強い思い・思念が生み出す力によって衝撃を受ける。
すべての言葉が力を持つとは限らない。
意図的な言葉であれ、ふとした言葉であれ、そこにこめられた強い思いや思念が、その言葉を発する人の奥底にある「本気」であった場合、そして受ける側がその「本気」を感じた取った時、受ける人は、その言葉によって衝撃を受ける。
その衝撃が、良い衝撃か悪い衝撃かは、込められた思いによって様々だ。
救われることもあれば、殺されることもある。
いずれにせよ、このようなことが起こるのは、人の強い思いが力をもち、それが言葉に宿っているからだ。
祈りはどうか。
いつも私は言う。
苦しんでいる人に言う。
祈ってくださいと。
何故か。
それは、人が特定の信仰を持つ持たないは別にして、誰もが「祈り」を人間の本性として生まれながらにして持っていると感じるからだ。
祈りとは「強く思う」ということに他ならない。
否、祈りにはそれに加え、生命を生命たらしめる働き、すなわちたましい・御霊が込められるのであるから、「強く思う」以上の力を持つことになる。
古人はこれを言霊とよんだ。
そのような果てしない力をもつ祈りが、人間を生かしめる神へと注がれたなら、一体どういうことが起こるのか。
それは、己の力は無論のこと、人間の力では、如何ともしがたく、どうにも動かしようのない、そういった苦難な状況や現実でさえ、その力によって変化するのだ。
それは天地自然の四季の移り変わりごとく、ゆっくりと、次第に、しかし着実に、そして最初は気づきにくいことや場合でも、その変化はふと振り返ってみると歴然なのだ。
はっきりと目に見えて好転するのだ。
わからぬ人にはわかるまい。この宇宙の法則が。天地の道理が。
金光教祖は残された。
思う念力岩をもとおすというが、信心する者が一心を出して願えば、どんなことでもかなえてくださる、と。
それは紛れもない真実だ。経験的にも私は断言できる。
だから私は言う。苦しんでいる人に言う。何度でも言い続ける。
祈ってください。自分の助かりを。
私も祈ります。あなたの助かりを。と。
私は知っている。
誰に何と言われようとも構わない。
私は知っているのだ。
人間が真一心に祈ったならば、どんな苦難や困難であろうとも、必ずやいつの日か貫き砕くことができるのだと。
必ず乗り越ることができるのだと。
誰が何というと、それを私は知っている。
恐怖を恐怖すれば
恐怖を恐怖すれば、恐怖という恵みをだいなしにしてしまう。
地獄とは、理想を実現しようとする、精神的な欲望以外にはない。
死は克服すべきものでもない。
死は、死ぬべきものだ。
今・ここにいることは、
君に出来ることではない。
(たぶん)ダンテス・ダイジ
本当の人生
私は長いこと、本物の人生はこれから始まると思って過ごしてきた。
だが、いつも、何かに邪魔されてきた―
先に片づけなければならないこと、やりかけの仕事、借金の返済。
それらすべてが終わったら、人生が始まるだろう、と思ってきた。
やがて、ついに私は悟った。
こういった邪魔物こそ、私の人生だったのだと。