『ソトコト』 原稿

  もう1年以上前になりますが、「ソトコト」と云う雑誌に研修所の記事が掲載されたことがありました。

「究極の精神健康術! 瞑想入門」と云う特集のなかで、1ページを6等分した枠の中のひとつに研修所の記事が出ています。
この記事の原稿は、私が送られてきたアンケートに答え、それを元にライターの方が編集すると云う形で書かれています。
以下、私が書いて送った原稿を載せておきます。(せっかく書いたので)
実際の完成記事は、この十分の一位の分量です。
今日、夕方に、「ソトコト」誌のサンプルが送られてきて、ざっと眼を通したのですが、研修所の記事の「ま裏」のページに、脳科学の新鋭の池谷祐二さんの「瞑想アタマを科学する」と云う記事(多分、談話を編集者がまとめたもの)が載っており、そのなかで「ヴィパッサナー瞑想の訓練を受けた人は、動体視力がわずかによくなったという実験結果が報告されています」という文がありました。
それを読んで、たしかに空間的な視力アップは、ほとんどすべての瞑想法でなされるだろうけども、時間的な解明度アップは、確かに「無常を見る瞑想」たるヴィパッサナーの真骨頂だよなー、と感じたことでした。 こういう実験研究も、これから更に進んでいくと面白いですね。
池谷祐二先生効果で、うちの瞑想コースの申し込みが増えないかなー、と期待してしまいました。
もし、どこかで見かけることがあったら、めくってみてください。
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【アンケート】
■ ヴィパッサナー瞑想の特長を教えてください。
ヴィパッサナー瞑想は、「あるがままの自分を観る」ための技術=芸術です。
「あるべき、理想の、頭で思い描いた自分や体験」を探し求めることではなく、
「いま、現実の、あるがままの自分」を観ていくことのなかに多くの問題の解決、開放があります。
問題の解決は、「他に」「未来に」「外に」「方法に」ではなく、
常に現在に、そして自らの気づきのうちに存在します。
また、「時間を設けて、静かに座って行う」と云うのが一般的な瞑想のイメージですが、
ヴィパッサナー瞑想の特徴の大きな一つは、「歩く」「食べる」「横になる」「話す」「運動する」など、日常生活のなかのあらゆる行為の中で瞑想を実践できる、と云う点にあります。
最終的に、私たちの生きている雑多で騒々しい日常生活そのものを瞑想とできるところに、
その真価があるでしょう。
その基礎訓練として、こちらの集中合宿研修(リトリート)コースは設けられております。
ヴィパッサナー瞑想は「Art of Living=存在(そのもの)の技術・芸術」であると言えます。
■ 瞑想中の心や体の状態をできるだけ具体的に教えてください。
通常、研修半ばから、
まず自分の知覚力、身体感覚が研ぎ澄まされ、鋭敏になっていることが感じられます。
食べ物の味はより美味しく、目に映る景色はよりクッキリと鮮やかに、かすかな音までが立体的にクリアに感じられます。
そして、自分の思考-感情の直接経験、共にあること、直接に触れ合うことによる「自己理解」と「自己(との)和解、受容」のプロセスが静かに進んでいきます。
一言で言えば、
日常、膜を隔てたような状態で経験している自分や世界や身体と、直接的に触れ合え、接触できる、
そのことによって、それまで見えていなかった自分・世界・身体の現実の姿がくっきりとクリアに見えてくる浄化の体験だと思います。
■ ヴィパッサナー瞑想を実践したいと思う方はどのようなかたが多いですか?
仏教、瞑想、気づき、自己観察、自己洞察などに関心のある方
慢性化した身体的問題(病気・疼痛)などを抱えておられる方
何らかの芸術的・身体的表現に関わっておられる方
精神的な諸問題(鬱、行き詰まり感など)を抱えておられる方
食に関する問題を抱えておられる方
などが多いかと思います。
■ WSまたはクラス情報
瞑想をしたい! 心が穏やかになり健康になりたい人におすすめのクラスまたはワークショップの情報を教えてください。
基本的にお一人さま向けのマンツーマンでのリトリートを行っております。
すべてを、その御一人の方の希望と必要性とに応じて細かく組み合わせ、自由度高く対応していきます。
コースの選択から、日程、研修の具体的なテーマ、内容、起床就寝時間、面接形態、食事スタイル、休息のリズムなど、その方の、その時の身体/心理的状態に最も適した研修形態を共に探り、
できる限り満足のいく、充実した「時」と「場」と「研修内容」を提供できるよう考えています。
常時受付ですが、基本的に定員一名のため、早めの予約(日程確保)が必要です。

『EQ こころの知能指数』

『EQ こころの知能指数 (講談社プラスアルファ文庫)』
内観コースも、気づき系(ヴィパッサナー)コースも、共に、それぞれの仕方で、EQを上げるトレーニングをしていると言えるでしょう。読んで損のない良書です。
気づき系瞑想コースは、主に「EQ基本定義5項目(p.74)」の、「1. 自分自身の情動を知る(情動の自己認識)」と「2. 感情を制御する」に、内観コースは、主に「4. 他人の感情を認識する(共感能力)」と、「5. 人間関係をうまく処理する(他人の感情をうまく受け取める)」に関係していると思います。

疲労と不安と怒り、そして、それの表現としてのイライラの頻発

(震災後、しばらく経ってから書いた文章のお蔵出しです)
疲労と不安と怒り、そして、それの表現としてのイライラの頻発―
それが、私たちの多くにとって、現在問題となっていることではないでしょうか?
長期間に渡り、解消されないまま続いた「不安」は、疑いとなり、
より不安を強めるストーリーを生み出し、暴走し、
向けどころの無い「怒り」は、その理由付け(怒るに足る正当な理由)を探し、
分かり易い標的を見つけ出しては、それを発散しようとします。
「イライラ」は、生活を覆い、自分の心身を(放射性物質以上に)痛めつけていきます。
心身ともに、疲れてきています。疲労は溜まっています。
これまで安楽な環境のなかで、スピリチュアルな覚醒、愛や融合の話を楽しんでいた私たちの多くが、徐々に不安や恐怖、ストレスの産む「ネガティブストーリー」に巻き込まれつつあるように思えます。
はっきり言えば、私たちの多くが、これまで分かった風に喋っていた、
覚醒の教えやワンネスの教え― いま、ここしかない、とか、恐怖は思考が生み出す、とか、
そういった「カッコイイ話」が、全部、頭のなかの理解でしかなく、
あっけなくメッキが剥げてしまっている人が多いのではないでしょうか。
もし、自分がそうであるなら、
まず、そのことを率直に認めることからしか始まらないと思います。
自分の「分かったつもり」「悟ったつもり」なぞ、何の役にも立たなかった、
津波をさえぎる防波堤ほどの役にも立たなかった、と。

修行に行きたければ、この現実以外に、実践の場はなく、
最高のグル(師)を探したければ、この現実(の状況)のなかにしか居ないでしょう。
この「現実と云うグル」の与えてくれる課題を避けていて、
心の修行の始まりはないでしょう。

人間には二つの種類しかありません。
一つは、問題 ・責任を、外に(他に)見ようとする人。
もう一つは、そのすべてを、内に(自分に)見ようとする人。
他を責めている限り、自己の本質的な変化はなく、
状況の本質的な改善もないでしょう。
(他の持つ問題も熟知した上で)まず、自分の側の問題を誤魔化しなく見つめ、
それにまず取り組んでいくとき、問題は動き始め、状況は変化していき、外の世界にも影響します。

疲労、不安、怒り、イライラ―
いま、自分の中にそれしかないのが事実なら、それ以外に(それの外に)解決法も答えもありません。
その否定的感情自体がグル(師)であり、それに習うしかありません。
それだけに、徹底して留まるしかありません。
自分の、外に向けての情報収集が、この内なる不安、不満、イライラ、ソワソワからの、うまい逃避でないか確認してください。
もし、逃避であるのなら、まず、その「現にあるもの」からの逃避を止めてください。
そして、自分の限られた自由になる時間(空き時間)を、
その「現にあるもの」との対話・直面に振り向けてください。

「自分=問題の感覚に留まること」気づきの瞑想コース – 気づきの研修所(このファイルに組み込まれました。2021/1106)

この、しばらく前の投稿に書かれていることを、
今まさに実践してみるべきときではないでしょうか。
それを最後までやり抜いたとき、
普通では得られない、大きな宝、大きな安定を得られることと思います。
今やらずに、何時やるのでしょうか。
真に自分を救ってくれる情報は外側にはなく、
自分の内側からしか出てきません。
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では、このような状況・場面で、有効な対処法とは何でしょうか。
「有効な対処法」とは、不安、怒り、イライラを、
思考によって自己増幅させることなく、
周りに向け爆発させることもなく、
自己に向け、心身を痛みつけ、消耗させることなく、
解消していくための術です。
(続く)
今回のような事態が長期化した場合、
放っておけば、心のなかを、不安、怒り、絶望が覆っていってしまうことは
避けられないことでしょう。
不安からは、様々な疑いが生まれ、増殖し、
怒りは、当面の分かりやすい標的を探し、攻撃することで、
このやり場の無い塊を吐き出そうとするでしょう。
災害初期における、緊急時の生体の適応(防衛)反応である、
事態に対する非現実感・夢を見ているような感じや、無感情(感情を感じられない)、あるいは一種の躁状態(ハイテンション)、身体的には、ケガや打撲の痛み、あるいは疲れすら感じとれない(自覚できない)緊急事態モードは、すでに解除され、これから本格的に、自身の喪失感、痛み、悲しみ、絶望、怒りと向き合わなければならない辛い時期が始まるでしょう。
被災の程度はそれぞれですが、多くの人が、この一ヶ月間、不満、不快、イライラ、我慢を大量に感じ、その解消できないイライラ(怒り)が、様々な場面で、問題をこじらせています。
もし修行者であるならば、この大変な場面で、いかに自分の中の怒りを外にぶちまけ、更なる怒りの連鎖を作ることなく、自己解消できるか、
「怒り」と云う(投げ込まれた)材料を、如何に「気づき」によって無害化・無毒化し、自分(意識)を動かしていくためのクリーンエネルギーに変換できるか、
自分の存在そのものを、「気づき」による浄化装置・発電所にする試みに取り組んでいくしかありません。
いかなる場合であれ、怒り、不安、疑いに発した行為、行動、言葉は、良い結果を生み出しません。
事態を、ますます混乱させ、救いがたいものにするだけです。
外へ向けた怒りには、解決も救いもありません。
自分の心身が、より一層、駄目になっていくだけで。
怒り、疑い、不安は、自分の心身を痛めつけます。
自分に毒ガス攻撃をかけているような、感情の自己中毒状態でしかありません。
「怒る理由」の正当性など、問題ではなく、義憤も、私憤も、関係ありません。
楽になりたかったら、救われたかったら(理屈はどうでもいい)
怒りを自分のなかで解消することです。
これを機に、抜本的な社会改革をするべきだと考えるなら、それも良いでしょう
(間違いなく、為されるべきでしょう)
でも、今は、外に向けて怒っている場合ではないのです。
頭の中の「妄想」に対処するのではなく、現実に対処すること。
ここで言う「妄想」とは、ホントの原因とか、隠された意味とか、責任は誰にあるとか…そういったことを含めた全てです。
また事実によって自身の中に引き起こされた「不安、恐怖、絶望、悲しみ、怒り、憤り」なども「妄想」の部類に入るでしょう。
後付けで不備(考えの甘さ)を指摘したりすることは誰でも言えます。
そのような発言を聞いて、向けどころのない(やりどころのない)怒り、不安、恐れの標的を作りあげ、内的感情の捌け口を作る=義憤と云う自分に正当性が有りそうな形で怒る、と云うのは良いこととは思えません。
内観研修の仕事をして感じるのは、人間には、すべての(良くない・うまく行っていないことの)責任を、人に負わせようとする人と、自分に引き受ける覚悟をする人との2種類しかないということです。
人のせいにしている限り、不満、怒り、腹立ち、被害者意識(トラウマとか)しかなく、
自分に引き受ける覚悟ができれば、始めは苦しいですが、受容することの安定が出てき、改善への一歩を踏み出せます。
その、どちらかの道しかないと思うのです。
本当に人間は、問題はすべて外に(人に)みるもので、
今回の地震に関しても、事件が起こると「誰のせいにするか」しか考えていないように思えます。
地震が起こったのは誰のせいでもないでしょう。どう考えても。
そのことが分かっているから、2次災害の方へ目を向けて、「これは人災だ」とか怒りを向けれる誰かのせいにすることで、地震そのものへのショックを解消しようとする。
誰かのせいにしたいなら、こんな宇宙を作った(そして、こんな世界、社会、政治を作ることを許した)創造者=神のせいにするくらいしかないと思うのですが、
2次災害(人災)的なものについても、人を責め立てるのではなく、冷静に、すばやくより良い対応を選ぶしかないし、そして、今回無理だったら、落ち着いてから社会構造を変える議論を進めるしかないのでしょう。
そんな馬鹿な国や政治家や電力会社を維持して、そこから電気の供給を受けて生きてきたのは私たち自身な訳ですものね。
「人間としての弱点」と云う言葉が出てきますが、
もはや、誰がどれだけ丁寧に「状況は、少なくとも悪化はしていない、このまま収束に向かうならば大丈夫だ」と説得しても、それが御用学者の事実隠蔽にしか思えない心理状態になっている人も多く居るようで、不安、恐怖、怒り、恐れ、悲しみ、絶望、などを、いかに自分のなかで処理していくかにしかないように思います。

人生を幸せにする(変える)魔法の口ぐせ(言葉)

『ちょっとした習慣であなたの人生は変わる ―思いのままに望みが叶い、最高の自分を手に入れる!』
『自分を変える魔法の「口ぐせ」―夢がかなう言葉の法則』

いつも意識的に肯定的な言葉を選び、脳に栄養を与えてみてください。
それを読み取った自律神経がいきいきとはたらき、心身ともに快調にしてくれます。
良い口ぐせを習慣化することで、こうありたいと望む自分の姿が現実のものとなっていくのです。
言語習慣こそが、思考習慣を形づくる源です。
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M氏は今も昔も、いかなる場面でも否定的な言葉をいっさい使いません。
何であろうと、まずは肯定してからはじめます。
「天気が悪い」と言うかわりに「いい雨が降っている、傘を持っていくとするか」、
「風邪を引いてしまって調子が悪い」のではなく、「そろそろ休めと体が教えてくれている」となります。
そして、1日も欠かさずに、成功キーワードの口ぐせを実践し続けています。
「今日も1日すばらしい日になるぞ」
「私は何て幸せなんだろう」
「お父さん、お母さん、ありがとうございます」
「私の未来はどんどん開けていく」と、大きな声で三唱するのです。
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M氏は、最初は小さなアパートを事務所にして、夫人とふたりだけの会社をスタートさせましたが、わずか20数年で、年商600億円の大会社、海外6ヶ所に法人をつくるまでに大躍進しました。
脳のオートパイロットのはたらきに導かれるまま、必要な時に必要な人材やビジネスチャンスが現れて、人生の大きな目標を達成したというわけです。

大森曹玄師の言葉

禅は、過去という死んだ時のなかに生命の亡骸を反省することでもなければ、未来という幽霊のなかに生命を模索することでもあるまい。
即今・眼前、いま、ここに全生命を完全燃焼させて、時ぎり、場ぎりに全体作用するものが禅だと、私は信じている。
しかも、前後を截断した現在は、現在でありながら時を越えている。
したがって、過去と未来を切って捨てるとき、かえっていわゆる『三世古今、始終当念を離れず』という言葉のように、対立を絶した永遠なるものに当面するのである。