質問者 私は正しくグルを選択しなければなりません。
マハラジ
正しい人でありなさい。
そうすれば正しいグルがかならずあなたを探しだすだろう。
質問者 あなたは私の質問に答えていません。どのようにして正しいグルを見いだすのでしょうか?
マハラジ
だが、私は質問に答えたのだ。
グルを探してはならない。
考えさえしてはならない。
あなたの目的をあなたのグルとしなさい。
結局のところ、グルとは終焉そのものではなく、終焉への道なのだ。
あなたにとって重要なのは彼ではなく、何を彼から期待するかだ。
さて、あなたは何を期待しているのだろうか?
(中略)
あなたはあなたに奇跡を起こすためにグルが必要だと言う。
あなたは言葉で戯れているだけだ。
ロウソクと炎のように、グルと弟子はひとつの単一体なのだ。
弟子が誠実でないかぎり、彼を弟子と呼ぶことはできない。
グルがまったくの愛であり、献身的でないかぎり、彼をグルと呼ぶことはできない。
偽りではなく、ただ実在だけが実在を生みだすことができるのだ。
『私は在る』(p447-449) http://tinyurl.com/s747u
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『アセンション館通信』2011/10/23(第394号) http://now.ohah.net/pari/ より
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アシュターヴァクラ・ギータ
『アシュターヴァクラ・ギータ』からの(細かい言葉使いなど)かなり適当な抜粋要約です。
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貴方(の本性)は純粋な気づき。
貴方は全てのなかに流れ、
全てが貴方のなかを流れている。
全ては私のものであり、
何一つ私のものではない。
なぜなら、真我は純粋な気づきに他ならないから。
賢い人は、全てが彼自身のなかにあり、
彼自身が全てのなかにあることを知っている。
智慧ある人は真我を知って、人生と云うゲームを楽しむ。
愚かな人は、重荷を背負うロバのように、この世を生きる。
何と彼は稀有な存在だろう。
自身が真我であることを知り、
ものごとが起こるにまかせ、行為する。
そして、決して恐れを知らない。
彼は自分が「二の無い一なるもの」、
全創造物の主である真我であると知っているのだ。
喜びや悲しみ、希望や絶望、生や死を通り抜けようと、
貴方は、変わることのない一なるもの、
貴方は常に満たされている。
私は、気づきそのもの、
それ以外の何ものでもない。
世界はマジックショー。
だが私には、
何ひとつ受け容れるものはなく、
何ひとつ手放すものもない。
全てのものごと(苦しみ)は立ち現れ、移り変わり、過ぎ去っていく。
それに気づけば、何も貴方をかき乱し、傷つけるものはなく、
全てのなかに私は在る。
それに気づけば、全ての想いは消える。
起こることの必然性
あなたの人生で起きることは、あなた自身の内面の必要性にきちんとしたがって起きているのであり、それが何であれ、今起きていることは重要で、大きな可能性を含んでおり、あなたが必要としていることだということです。 『バーソロミュー』
観察の先にあるもの
痛み・悲しみ・苦しみがあるとき、それを観ている自分、それを恐れ、それに巻き込まれること無く、それを制御しようとしている自分という感覚があります。
「それを観察しよう(観察していよう)」とする心の動き(行為)自体が、それを恐れ、それを制御しようと云う自我に発する制御欲求・安全欲求に発している場合がある。
「(観ている自分と、見られている対象の)分離感のある自己観察」の極みが「分離なき観察」であり、更に言えば、それは「観察」ですらなく、ただ「それ(対象物)」であること、「それ」になっていること、「それ」としてハタラクことである。
観ている自分(自我)と云う残り滓なしに、完全に「それ」しかないとき、「それ」が自然に働き、純粋な衝動・エネルギー・振動として展開し、それを昇華する。
クリシュナムルティは、それを「フラワリング(開花)」と云う言葉で表現します。
禅の逸話にこういうのがあります。
白隠禅師に長く参じたおばあちゃん(大姉)が居た。
白隠さんにも一目置かれるほどの、いわゆる「悟った」おばあちゃんであった。
あるとき、そのおばあちゃんの孫が事故で死にました。
そのお葬式の時、おばあちゃんは、ワンワン言って泣いてました。
それを見た近所の人たちが、「何だー、あのおばあちゃん、普段悟ったとか何とか言ってるけどさー、あんなに取り乱して泣いちゃってさー、普通の人と何にも変わんないじゃない」とかささやきあっていました。
それを聞いたおばあちゃんは、「あんたら何も分かっていないねー。自分のこの号泣は、どんな偉いお坊さんのお経よりも功徳があるんだよ」と答えた。
この話の意味は、自分では、まあ理解しているつもりで居たのですが、数日前、「なるほど、そういうことなのか」と、やっと腑に落ちた感じがありました。
大きな山を貫通しているトンネルを抜けて、その先に行きたいなら、そのなかに真っ向から入っていくしかないように、トンネルを幾ら外から観察したところで、その通路を抜けた先にはいけない。
雨雲を外から見ていても、何も分からないように、そこに突入して、暗く、濡れた場所を、モミクチャになりながら通り抜けるしかない。
痛み、苦しみ、惨めさ、喪失感などを超える、最高で、最短の道は、ただ全面的に苦しむことである。
苦しんでいる、そこから逃れようとしている自分すらないまでに、苦しみに打ちのめされ、打ち負かされて、苦しみそれ自体しかない状況に、真っ直ぐに飛び込んでいくこと(あるいは引きずり込まれていくこと)
これは、テクニックなどではなく、単に、どうしようもなく、駄目になることである。
それが起こるとき、これはマズイ! このままでは駄目になってしまう、との自我の足掻きが起こるが、それに構わず、負けて、飲み込まれて、駄目になって、訳が分からなくなってしまえば良い。
つまり、最高の方法は、無方法であり、(方法を求めることこそが、最大の問題からの逃避・延期であり)方法など考えずに、全面的に、それに負け、突入することが必要である。
ただ、これは自分(自我)が行なえることではなく、起こるときには起こること。不慮の事故、あるいは神の(宇宙の)恩恵である。
先ごろ亡くなった、東山寺の雪担和尚さんも、このことばかり言ってました。
このことしか言ってなかった、と云っても良いです。
しかし、それは禅にしか言えないこと(禅の専売特許)ではなく、クリシュナムルティであれ、ヴィパッサナーであれ、インド系の教えであれ、(言い回しは違うけど)行き着くところまで行けば、そうなるしかない話で。
心の治癒と魂の覚醒 他人事のように自分を見る
http://lasttimer.blog130.fc2.com/blog-entry-176.html
ここでは、外から「他人事のように自分を見る」工夫が紹介されています。
これも、間違いではなく、私たちにできることは、ただどこまでも、いまある苦しみを観ることだけであり、その極みにおける飛躍は、ただ起こるべきときに起こるだけで、狙うことも、訓練することもできません。
この「観察の先、観察対象へのジャンプ」は、自己観察と云う道(通路)を通り抜けた先にあるものであり、そこに向けてできることは、地道な、弛みない、粘り強い観察の訓練のみです。
「絶望(何もしないこと)と飛躍」が起こる為には、「あらゆることをし尽くさなくてはならない」。その「できること」とは、気づきの訓練、今ある問題を純粋に観ることの持続、強化でしかないです。
……
言い方を変えれば、つまり、こういうことです。
自我(思考、記憶、比較)があるから、(たとえば)嫉妬が起こります。
その意味では、「嫉妬」は幻(蜃気楼)のようなものです。実体がない。
しかし、一旦、嫉妬と云うものがる強度を持って成立してしまうと、それは現実に存在するもの(法)になります。苦しいです。
その嫉妬を、見ている自我なしに(思考・イメ-ジ、変えようとする心なしに)観察するなら、その「嫉妬」というものだけが、実在であり、真実であり、それしかありません。
そのとき、その嫉妬と名付けられた感情そのものが、自発自展して、真理へと変容します。
それが嫉妬によって嫉妬を越える道であり、大乗仏教などの行き方です。
パワースポットな写真
最近知ったページなのですが、太っ腹にも「文章や画像はご自由にお使いください」とあるので、何枚かを、このブログのヘッダー画像に使わさせて頂いております。(なので、屋久島のではない写真が幾つか混じっています)
ありがとうございます。
パワースポット
http://hifumi.sakura.ne.jp/yamato-powerspot.html
森信三 『一日一語』の味わい
九月二十六日
道の継承には、少なくとも三代の努力を要せむ。
従って継承者は師に劣らぬだけの気魄と精進を要せむ。
一人の宗教的人格が生まれ、それが完成に至るには、親子三代はかかる。
もし、自分が一代目であるなら、次の世代に、良き精神的遺産を残せるよう、子を、そして、関わるすべての人を育てなければならない。
自分が既に、二代目、三代目との自覚があるならば、
その(親や師、先人から)受け継いだ良き資質を、この自分の今生に於いて開花させるべく努めるしかない。
九月二十七日
われわれ有限者にとっては、絶対者は幻を通してしか接しられない。
それはちょうど、晴れた日の太陽は直視できないように、雲間を透してのみ、その姿を垣間見ることが出来るようなものです。
日の光の美しさは、雲があって、より、その美しさが増すように、
煩悩と云う雲の隙間から射し見える、気づきの光は、より美しい。
それは、煩悩まみれの、この心に、仏の、気づきの、あちらの世界の光がさす瞬間の光景である。
私たちは、どこまでも、純粋な光-煩悩の滅尽を目指さなければならない。
しかし、この雲越しに射す光の、何と美しいことか。