> 「面白い」というのはげらげら笑えるということではなく、
> 「今まで気づかなかったものにスッと気がつくことですね。
> そのとき雲が切れて、向こうから光が差し込んできて、面が白くなる。
> それを昔の人は『面白い』といったんですね。
朝日新聞(1月26日) コラムニスト 天野祐吉氏の言葉だそうです。
そういう意味では、修行、つまり「気づき-洞察」こそ、
面白さの真髄なのではないか、と思ったりするわけです。
10日間コース3連発の最後のひとつが先ほど終了し、
寛いでいるところです。
今回の研修も非常に面白い内容となり、
近いうちに送ってくるであろう体験記を楽しみにしております。
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陰謀論はどこまで真実か?
ここのところの世の中の動きを見ていて、陰謀論についておさらいしたくなり、
前から気になっていたこの本を読んでみました。
「備えあれば憂いなし」で、
過去にどのような陰謀論が存在し、
どのように生き延びてきたのかを知っておくことで、
新たなる陰謀話に出合ったときに冷静に対処できると思います。
トピックごとに完結していて、
2時間もあれば充分読める、読みやすい本です。
一家に一冊と云う感じで、陰謀論スタディ最初の一冊としてお勧めできます。
願わくば、
この本に書かれているレベルの陰謀論に関する基礎的知識が、
日本国内の平均的家庭で共有され、日常の当たり前な話題となることを。
『検証 陰謀論はどこまで真実か』 ASIOS
—–
この本の「あとがきにかえて」P.328~の抜粋です。
(良い内容なので頑張って打ち込んでみました)
問い 陰謀論は、なぜこんなに流行るのでしょうか?
山本弘 僕は陰謀論を生み出す心理は、神話を生み出した心理に似ていると思うんです。
昔の人は、自分の住む地域に洪水が起きて多くの人が死んだときに、「ただの災害だ」「意味なんか無い」とは思いたくなかった。
こんな大きな災害には必ず何か大きな意味があるんだと思いたかった。
それで「神が驕りたかぶった人間に罰を与えた」と云うストーリー生み出した。
現代においても、大きな災害や事故が起きるたびに陰謀論が生まれるのもそれと同じで、みんな「ただの偶然」「意味は無い」とは思いたくない。
事件の大きさに匹敵するストーリーが求められている。
ケネディやジョン・レノンのような偉大な人物が、平凡な一人の男に殺される訳がない。
彼らの死には、彼らの偉大さに見合う神話が必要なんです。
(略)
僕は陰謀論と云うものを、神話の現代版だと思っているんです。
「この世界で起きることに意味を求めたい」と云う人間の衝動が、事件を説明するストーリーを創造する。
違うのは、昔は陰謀の主体が神様だったのが、今は人間の仕業とされていることですね。
問い なぜ多くの人が陰謀論を受け入れてしまうのでしょう?
寺薗淳也 (略)陰謀論と云うのは、その中身はともかくとして、世の中の分からないこと、複雑なことを分かりやすく説明してくれると云うことがあると思います。
世の中は不合理なことだらけです。
明日事故で死ぬかもしれない。
突然、信じられない事件が起こるかもしれない。
そういうことが起こるたびに、人は必ず「なぜ」と云う感情を抱きます。
実際のところ、事故や事件に理由を求めるのは難しい場合がほとんどなのですが、人間は「なぜ、あの人が事故に遭ったのか」「なぜ、こんな事件が起きてしまったのか」と云うことについて、明確で分かりやすい説明を求めます。
その方が、分からないまま心の中に残っているよりは、心理的な安定を得られるからだと思います。
「ああ、そういう理由なんだ」と(中身はともかく)納得できれば、安心してその先へ進む力を得れられるでしょう。それが「心のなぐさめ」であったとしても、です。
陰謀論は、そういう心の不安定な状況につけ込んで、私たちの心に入ってきます。
心地良い話、規模の壮大さ、そして非常に明快な説明。(略)
さらに、陰謀論同士がまとまることで、さらに巨大な世界が構築され、変な話ですが、そういった世界への憧れ、あるいは「それを自分しか知らない」と云った優越感すら抱けるようになります。
(略)
陰謀論は、このように、人間の心理に巧みに入り込み、その人の心の隙間を埋め、優越感をくすぐることで、人を虜にしてしまうのです。
そして、いったん陰謀論に憑かれた人々は、その気持ちよさから抜け出すことを恐れ、陰謀論の考え方から抜け出せなくなってしまいます。いわば心理的中毒です。
これから抜け出すのは相当に大変なことだと云うのは、皆さんも想像がつくと思います。
だからこそ、怪しげな陰謀論にだまされないように、心を鍛えておく「予防」が重要なのです。
『病気はなぜあるのか? Why We Get Sick』
図書館で借りた本ですが、この本は「大当たり」でした。
「風邪の効用」とか良く聞く話しですが、この本の前半部分では、その手の話を「進化生物学」「進化医学」の立場から進めていきます。
更に、そこに留まらぬ興味深い視点と話題が最後まで次々と繰り出されてページ捲るのにワクワクする本です。
進化生物学の視点を宗教的な事象(輪廻という観念や、自然現象の後ろに意味(意思)を見出そうとする人間の傾向性など)に当てはめて考えてみることを思いました。
今の時点で、今年のベスト3に入る、色々なことを考えさせてくれる、良い本です。
『病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解』
ランドルフ・M. ネシー, ジョージ・C. ウィリアムズ
病気はなぜ、あるのか
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0759-5.htm
進化医学 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96%E5%8C%BB%E5%AD%A6
『病気はなぜ,あるのか?』 – 本を愛する医者のブログ
http://d.hatena.ne.jp/nakamurakaoru/20080814/1218698294
病気はなぜ、あるのか – めざせ、ブータン
http://blog.goo.ne.jp/pgpilotx/e/6cb14d7334434a12872da545d9eca4bd
病気はなぜ、あるのか(進化医学による新しい理解): 治験おすすめ書
http://horai-med-book.seesaa.net/article/46385128.html
神の声と悪魔の声
神の声と悪魔の声を聞き分けるのは難しい。
修行の道に分け入る前に、
まずそのことを知っておくべきである。
いま、ここ
この「いま、ここ」に本当に満足でき(てい)ない人は、
その「いま」を「何時(いつ)」に変えても、
その「ここ」を「何処(どこ)」に変えても、
本当に満足できる(する)ときはない。
これは言い古された言葉ですが、絶対的な真実です。
故に「全身全霊全力」で、
いま、ここの、この自分に、立ってるしかない。
「全身全霊全力」で、いま、ここ、この事実に突っ立とうとする努力を
「修行」と呼ぶ。
その「今に居る」修行窮まり、どうにもこうにもならぬとき、
この私は「いま、ここ」には居れぬのだと分かったとき、
その挫折的了解の果てに、
すべては、常に/既に、今ここにあったのだと云うことを見出す。
「いま」ではない「何時か」、
「ここ」ではない「何処か」、
その実在しない頭の中の妄想の熄んだとき、
落ちどころ(残る場所)は、
この、始めからあった、「いま、ここ、この事実」しかないからです。
上田三四二の歌と文
ここのところ、『短歌一生― 物に到るこころ』 上田三四二
と云う文庫本を夢中になって(研修中なので少しずつですが)
読んでいます。
図書館でリクエストして借りてみたのですが、10頁くらい眼を通して、
あまりの素晴らしさに、即、amazonの中古にて注文しました。
ため息が出るほど見事な美しい日本語の文章が、
密度、緊張感の途切れないまま、ずらっと続く、驚くべき内容です。
憧れるしかないですが、
これもまた倦まず弛まずの精進によって成り立っている文章なのでしょうね。
短歌論ですが、文章論であり、
私にとっては、見事な「修道論」です。
この歌が好きです。
ちる花はかずかぎりなしことごとく光りをひきて谷にゆくかも
上田三四二 – Wikipedia
『この一身は努めたり』小高賢・著