被災地の貴方へ 10

■ 死んで、生きる
もし、いま現時点で、もう死んでしまいたいと考えている方が居られるなら、
以下の考え方を提案します。

死んだと思って生きてみる
あの日、あのとき、
自分は死んだのだと思って生きてみます。
どんなに苦しかろうと、どんなに痛かろうと、
自分は本来(他の人と同じように)死んでいたのだ、
おまけの人生なのだと思って瞬間瞬間を生きてみるのです。
なので、このオマケの苦しみを(現状の悲惨さを生きることを)
もう少しだけ、ホントの自分の最限界が来るところまで味わって生きてみよう。
そして、ホントに駄目になったら、
そのとき、静かに、周りの人に傷を残さない形で、死のう、
そのときまでは、やってみよう。
そのように考えるのです。
死ぬ方が楽だと云うのは、このような事態に置いては、当たり前なことです。
生き延びて、何が残っている、何の平穏がある、
この胸の痛み・苦しみ(爆弾・劇薬)を抱えて、何の喜びがある、と感じることでしょう。
しかし、人類は、その膨大な苦しみに耐えて生きてきました。
生きて、その人間が過去耐えてきた絶望・苦しみの大きさを経験し、味わった上で、死んでもいいのではないでしょうか。
そのうえでの自死を、私たちは軽んじません。嗤いません。
私はかって、、そのような考え方(自分のなだめ方で)時間を稼ぎ、生を繋ぎました。
とにかく、今日一日を生き延びてください。
—–
■ 死の前に
もし、貴方が今既に(であれ、後にであれ)自死を決めたなら、
その絶望を知らぬ私に、それを止める傲慢さはありませんが、
ひとつのプレゼントを差し上げることはできます。
死ぬ前に、瞑想であれ、内観であれ、一つのコースを提供できます。
外なる全てを失い、夢も希望も未来のビジョンも情熱も愛も、
全てを失った上で、もともと自分にあった「生きていること」の実体は何であったのか、
この苦しみの核心は何であったのか、それを瞑想は見せてくれます。
また、内観は、「時間をかけて行なう臨死体験演習」であり、
過去との決別、死のリハーサルの「喪」の作業です。
そのとき、貴方が何を見、何を思うのか、そこに私は、一抹の希望を感じます。
私は、「死ぬのをやめて生き延びよ」と云いたい訳ではありません。
それは、その方自身の決めることであり、
そのような「煩わしい」と感じられるであろう言動は一切しないと思います。
「死に臨んだ人のターミナルケア」の積もりで接したいと思います。
ターミナルケア – Wikipedia
死ぬ前に、最後に「人間(意識)として生まれてきたことの可能性の限界(全開)」を見て(瞑想)、
そして、この人生を清算・総決済(内観)して、そして飛び立っていくことは、悪いことではないと思います。
貴方は、屋久島の森を見られたことがあるでしょうか。
本州で言えば、神社のご神木になれるレベルの木々が、ドカンドカンと、山の中を何百本も、何kmも、連続します。
それを見ると多くの旅行者は、「屋久島は、養分は多いから、(肥沃な土地だから)杉も、他の木もこんなに大きくなるのだろう」と考えます。
しかし実は、屋久島の樹は「自然がきつくて成長するのに本州の何倍も時間が掛かるから長生きできる」のだそうです。(山間部の屋久杉で、平均1年間に1mmだそうです。1000年で1m)
本州の杉は、養分もあり気候もいいので、どんどん成長します。
そして遅くとも何百年かで、自身の成長の限界(根が胴体を支えられる限界)を迎え、死んで行きます。
屋久島の杉は、成長が遅い分、時間をかけて基礎力を培っている分、粘り強いのです。
また、木々それぞれの面構えを見ていただきたいです。
五体満足で、樹の天辺、枝などが揃っている古木は、ほぼ存在しません。
100年以上生き残っている樹で、台風、雷、がけ崩れなどの自然災害に遭った事のない個体なんて存在しないのです。
みな、重篤な被災者です。
傷まみれで、グチョグチョの、総被災者状態です。
その傷を自身の自然治癒力で修復し切れなかった木々が、死んでいき、
他の樹の肥料・養分となり、自然の中に埋没していきます。
がけ崩れで横倒しになったまま、死なずに生き延び、そこから垂直に枝を伸ばしている樹もいます。
身体の上半分が、台風か雷かで全て奪われ、その姿態のまま生き延びている屋久杉の巨木もいます。
樹は、その種の落ちた場所が、どんな大変で、不利なところであろうと、歩いてより良い場所に移動することができないので、そこで、生きるか死ぬか、頑張りしかありません。
屋久島に、疲れ果て、全てを捨てた人間が来て、森の中を歩いて、
「癒された」「力を頂いた」と感じるのは、
そんな自然の、「美しい」との言葉では表現し尽くせない、
生々しさ、強烈さ、懸命さと、その生へ向けての執着と、傷まみれの身体の、美醜を超えた「美」に感応するからかも知れません。
—–
■ おまけ
mixiに、こんなコミュがあるようです、
「死んだと思って生きてみる」
以下、紹介文から

世界の無垢(むく)さ、穏やかさをみるのに
もっとも簡単なんじゃないかと個人的に思うのは
「死んだと思って生きてみる」
コレ
やってみたらクセになる。(笑)
さて、今日いちにちやってみよう
「いや~、私死にましてん。ときどき忘れちゃいますけどなあ~」
というノリで生きてみる。(笑)
死を悟ったとき、死を受け入れたり諦めたり開き直ったりしたときに目覚める(愛に気づく)ひとがいるみたいに
すでに死んじゃったという気分になると、「おばけは楽しい」という某きたろうさんの言葉(?)が真実性をもってくる。(笑)
死んじゃったんだよ
だから、もう世間での役目もないし、仮面もない
いっしょうけんめい生きてるひとたちが、なんだか無垢に見えてくる
なんでこんなに罪も無いひとたちをああだこうだ言ってたんだろう?
って気分になってくる
ああ、がんばらなくてよかったんだ~
ほんとに実感が湧いてくる。
なんだか生きてることに感謝が湧いてきちゃう。生きてるだけでまるもうけってほんとだなあ。
あ、死んでたんだっけ?(笑)
ああ、戻ってみんなに伝えたい!って思うかもしれない。(笑)
でも、がんばらなくていいんだよ
そこで和んでくれているひとがいるだけで、がんばらなくてもいいんだよって安らいでるひとがいてくれるだけで(幽霊だけど)
なんだか、みんなも明るくなってくる。
ほら、死んだままでもいいんだよ。(笑)
ときどき道を譲ってあげたり戸を開いて待っといてあげたら
なんだかほっとするような心の交流があるかもしれない。
ほら、与えるもの、和みをもってるんだから、愛があるんだから
ひとと関わることが驚くほど楽しくなってきちゃう。どうしよう、死んでるのに。(笑)
とか思ってると
たまーに、死んでるのに話しかけてくるひとがいる。(笑)
それならそれで、いいたいこと思いつくまま言っちゃおう
笑って、世間の価値観から自由になったやさしい心地の自分で、思いつくまま遊んじゃおう
ほーら、、みんなどんどん、「死んじゃったひと」の仲間入りをする。(笑)
なんだか、気楽になっちゃう。
みんな迷いや不安から目が覚めてくる、自由に生き生きしてくる。
ほーら、よかった。世界は蘇った。焦りから解放されて、穏やかに輝いてくる。
あなたのやさしい気持ちに癒されて。
まるでそこにないかのような、時間から解放された世界。
時間から、目的意識/焦りの呪縛から解放された世界はここにある。
ちっぽけな自分の価値観が死んだいま
いつでもあったやさしい景色、無垢な景色が、するっと蘇った。
。。そんな話を考えた(笑)
さあ
やってこよっと。

被災地の貴方へ 9

「もう駄目だ」と心が折れそうな夜に。

反応系アファーメーション
上村秀雄 『歩むもの』抜粋

抜けないトンネルはないし、
明けない夜もない、
いまがどれほど真っ暗だろうが、
それは紛れもない事実です。
闇の深さ、地獄の悶絶を味わった人にしか分からない
当たり前の日常の祝福もあります。
死に裏打ちされることによって、生はその輝きを増し、
疑獄の苦しみを経過することによってしか到達できない
人間性の開花(浄化)もあります。
どうか、行き切ってください。
すこし落ち着いたなら、以下の本も良いでしょう。
(今はまだ、きつ過ぎるかも知れないです)
『泥流地帯』
『続・泥流地帯』大正15年(1926年)5月24日、十勝岳大噴火。
突然の火山爆発で、家も学校も恋も夢も泥流が一気に押し流してゆく。
真面目に生きても無意味なのか。人生の試練に意味はあるのか。
『無手の法悦』
“大阪堀江の六人斬り”に遭遇、両腕を失いながらも、結婚、出産、離婚などを経験し、口に絵筆をとりつつ障害者自立のための活動に献身した順教尼の自伝。
痛みの再体験と、再起のために。

被災地の貴方へ 7

動かないものであったはずの大地がこれだけ振動し、
外なるものの脆さ、儚さを私たちは思い知らされました。
では、自分のうちの決して失われることのない宝(財産)は何処にあるか。
何が最後の拠り所なのか。
それは、気づきのなかにしかありません。
なぜなら、気づきは、生き物のしての人間に備え付けられた、
ギリギリ状態、限界の危機的状況を生きのびるための最後の起動プログラムであるからです。
「緊急時脱出生存」のための「ハタラキ」であるからです。
それが十全に働けば、生物としての貴方の心と身体は、生き延びれます。
瞑想は、緊急時に役に立たないものではありません。
どうしようもない緊急時に、最後に働いてくれるのが「気づき」です。
それが生死を分けます。

目の前の現象に、適切に、完全に対応すること、
頭で考えるのではなく、心身統合された全体として、適切に反応し、一つずつこなしていく事。
自分の中の、奥の、マグマのような感情は、気づきによって、まず「撫で、さすってやること」
今は、全面的に、それに付き合っている余裕がないのなら、
しばらくは、自分の胸の中に押し込み、沈め、待ってもらうこと。
事態が一区切りついて落ち着いてから、ゆっくりと眼を向けてあげるからね、と
今は、許してもらうこと。
そして、自分の限界まで、今できる(やるべきこと)をこなすこと。

大いなるものに抱かれ この道を歩く

被災地の貴方へ 6

私が、かって、どうしようもないギリギリの状態を生きていたとき、
一番の救い(ガス抜き・気晴らし)は、時々どこかで一人になって、
たとえば、誰も居ない夜の公園、空き地、海岸などに行って、
あるいは、一人で車に乗ったり、自転車に乗ったりするときに、
携帯のヘッドフォンで自分の好きな音楽を聴いて、大声で歌う、
あるいは、その音楽で、メチャクチャに叫びながら踊って、
溜まっている感情を解放することでした。
家族などのまわりの人の前では、いつも余裕な顔をして、わらって「大丈夫だから、きっとうまく行くから」と言いながらも、泣きたい、叫びたい気持ちは、自分も同じです。
その苦しさを、一人になって、踊り狂い叫ぶことでガス抜きして、堪えていました。
そのようなメンタルケアは必要なことだと思います。
今回、もし自分の音楽コレクションなどを失って、聴こうにも、それ自体がない方に
ご希望があれば、私の持っている「とっておき」のをお送りしたします。
内観的に云えば、音楽の違法コピーは「嘘と盗み」になり、してはいけないことですが、
今回の事態に際して、それぞれの音楽家の方たちも、自分の音楽が被災者を支える役に立つならば、お許し頂けると思いますので、決行します。
もし、落ち着いたら感謝を込めて、それらのミュージシャンのCDなどを買ってあげてください。
MP3で携帯に送るのがいいのか、CDがいいのか、MDがいいのか、リクエスト時にお伝えください。
また、元々の音楽の志向性もお伝えください。
昼間の興奮を鎮めて沈静化するための、chill out系のものと、
「よしっ!これからやるぞー」と云うときのやる気煽る系のものと、
あと、感情的に限界で爆発しそうになったときの、感情誘発系のものとに分けることができます。
ご希望の方は、メールにて。
reiki@artofawareness.jp
—–
OSHOのダイナミック瞑想とか、クンダリーニ瞑想とかも大いに役立つだろうと思います。
サニヤシンの方が今回特別に無料配布される決定をされることを期待します。

被災地の貴方へ 5

今感じるのは、
こういうときであるからこそ、人の善性を信じたい。
そして、人の善性を引き出したい。(引き出すシステムを作りたい)
と云うことです。
(私の頭のなかでは、研修所の運営のことと、今回の震災のことがオーバーラップしています)
内観研修を経験された方ならば誰でも、
「人の真心はきれいなものである」「清浄な仏心」などと云う能天気な話は
信じてはないでしょう。
自分の心を誤魔化しなしに、正直に覗き込むならば、そこにあるのは
「邪悪さ」「けだもの性」「欲望」「悪意」「ずるさ」「嘘と盗み」…
それだけでしかないでしょう。
故にこのような危機的な場面で、その「動物性」の闇が噴出すことも自然です。
しかし、だからこそ、ここで「人の善性を信じたい」
そして、「人の善性を引き出したい」と思うのです。
そして、この、何十年か何百年か振りの、日本国の大きな「禊・祓い」を、
皆で痛み分けし、分担して、良きものとして行きたいのです。

被災地の貴方へ 4

いまは、こうして安定してのんきに生きている私にも、「死んだ方がまし、死ぬより辛い」と云うような、大変な時期はありました。
「明日の朝、正気を保って日の出を拝めるだろうか(夜が明けるだろうか)」と思いながら、夜を過ごす何ヶ月かがありました。
そのころは、高いところ(ビル)などに登るのが怖かったです。
気を抜くと、飛び降りてしまうかもしれない自分が恐ろしいからです。
また、自動車を運転するのが怖かったです。
このまま電信柱か海の中に飛び込んでしまえば一番楽だ、と云う衝動を抑えるのが大変だったからです。
しかし、その苦難は乗り切りました。
渦中に居るときは、未来は見えません。
しかし、人間の脳(こころ)は、脆い面もあるけども、その芯は相当に強いものです。
簡単には壊れません。
なので、なんとかこの時期を乗り切ってください。
私には、自分の個人的体験を書くのはカッコ悪いと云う価値観があり、これまで書くことはなかったですが、今回、皆さんの何らかの励みにもなるかと思い、書いていきます。
それを読んでください。
私自身の過去の関わり、研修に来られる方、
みんな表面的には普通のフリをして笑っていますが、それぞれが「傷負い人」です。
それを抱えて生きています。