気づきの言葉

 人間、どん底に突き落とされたら肚が据わる。
逆境に置かれて、はじめて真の勇気が湧いてくるものである。

神道の根本は「みそぎ」と「祓え」であるが、
祓っても祓っても、又湧いてくる己が心の罪けがれには、唯々驚くばかりである。
罪けがれとの戦いは、いのちがけである。 (気づきによる「みそぎ ・祓え」)

「一日一生」などと唱えながら、とかく心がゆるみ、すべてのことが中途半端になりやすい自分を情けなく思う。
「一日一生」ということは、明日を頼まぬ生きかたである。
かって映画の題名にあったように「明日なき人々」が、私たちなのだ。

夜が更けて、じっと坐っていると、窓の下で一しきり虫が鳴く。
こんなとき「どうやら一番いけないのは自分ではないか」と思えてくる。
気ままで傲慢で、そして卑怯で、何かといえば保身を考える。
すこしでも人によく見られたいと思う。
まことに救い難き俗物である。
ふと耳にひびいてくるのは「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」という「歎異抄」の一節である。

朝々、境内や道路を掃く、わが箒の音が、われながら澄んでいるときもあれば、濁っているときもある。
どうかすると、焦りのようなものが箒の音に感じられることがある。
そんなときは「これは、いかんな、今日は気をつけなければ―」と思うのである。

無私無欲の人こそ、この世の中で最も強い人である。

言葉の布施を惜しんではならない。
ちょっとした、あたたかなひと言を、人は喜ぶものである。
殊に、老人と病人は―。
心なきひと言に、深く傷つくのも老人と病人である。

人間、ほんとうの力は、泣く涙も涸れてしまったところから湧いてくる。
森先生の、かってのお歌に「悲しみの極みといふも尚足りぬ いのちの果てにみほとけに逢ふ」
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上村秀雄 『歩むもの』抜粋
上村秀雄 『歩むもの』抜粋