近くの図書館に寄った折に、たまたま手にして、軽い読み物として借りてみた本なのですが、昨日パラパラ読んでいて、面白いなと思う一節があったので紹介してみます。
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「伝統的な未開社会には学校はなかった。
躾、労働、教育は分離せず、生きる場がそのまま教育の場となってきた。
長い人類史の中で学校がなくて困ったと云う話は聞かない。
むしろ、学校ができたことで、学習と労働とが分離したために、労働とは無関連の純粋な学習が生じた。
目的も見えないままに、とにかく何かを学ぶという空っぽのシステムが誕生したのだ。
この純粋培養された「学習」を維持するために作り出された素晴らしい発明品がある。
子供たちをある種のゲームに駆り立てる試験制度という複雑な社会制度だ。
この試験制度に適応するために、とりわけ日本の教育で重視されるのがIQだ。
だが、ニューギニアの原住民からも分かるように、人類が生き延びるために育んできたのは、意欲・計画性・想像力といった能力で、IQは、その基礎条件にはなるが、能力の高さ自体はIQとは無関係なことが分かっている。」
『自給再考』(農文協)から「ポスト石油時代の食料自給を考える―人類史の視点から」吉田太郎
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GotoGoの「見るコト」
ブログの紹介です。
記事中の「注意」を「気づき」に替えれば、私が感じていることと一致すると感じました。
GotoGoの「見るコト」
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やはり、「見るコト」が核心であると思う。
無選択かつ完全なる注意が、今ここに在るかどうか?
私が毎瞬間死ぬコトによって、完全に生きているかどうか?
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見るコトを核心に置くのは、注意(attention)の魔法を確証するからである。
見れば終わるのである。
見れば解決するのである。
部分的で不完全な注意が、「問題」を創っているのである。
無選択かつ完全なる注意は、「問題」をその根底から解消する。
そして、無選択かつ完全なる注意は、あらゆる「幻想」に対して死ぬコトであり、
そうして、今この瞬間を「ありのまま」に生きるのである。
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注意が部分的で不完全であるコトと「分離した私」(エゴ)の顕われは同じコトだとわかった。
注意が部分的で不完全であるコトから、「(心理学的)時間」が生じ、「問題」が生じる。
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しかし、「分離した私」(エゴ)を前提にした「努力」、注意が部分的で不完全であるコトを「問題」として「対象化」し、それを「修正」しようとする「努力」は、その「問題」を生じさせている同じエゴの運動の次元にある。
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無選択かつ完全なる注意が在る時、私性(I-am-ness)は「ありのまま(What is)」と等化し、ただ歩く事さえも新鮮になる。
禅の法語、あれこれ
10年ぶりくらいに眼を通しましたが、言うべきことはきちっと言っている、芯のしっかりした明晰な法話だな、と改めて感心しました。
研修所HPの文章、「気づきのなかの生―苦しみから気づきへ」のなかで、「水平的な道と、垂直的な恩寵」と云う表現で、法の説き方に「垂直的(頓悟的)・水平的(漸進的」の違いがあると書きましたが、飯田とう陰老師を初代とする少林窟道場は、禅の中では「水平的」な切り口での道の示し方が強く出ていて、そこら辺が(義光老師の実弟である)井上義衍老師とその門下の老師さんたちとの違いで、そこで話がゴチャゴチャになってしまいます。
ただ、久しぶりに読んで、少林窟の修行指南、道の行程の説明は、修行者に親切である、とは感じました。改めて、禅は、やはり良いな、魅力的だな、と感じたことでした。
◆ 井上義衍老師の法語
現代の禅匠としては越格の人であったと思います。「昭和の盤珪さん」とでも呼ぼうか。
禅と良く似た、ダグラス・ハーディングさんの知覚実験。
これもかなり「垂直的」です。直指端的。
少林窟 大智老尼の法語
只管工夫
いろは法語(抄)
照庵大智老尼語録断簡
少林窟道場の大智老尼の法語を久しぶりに読みましたが、改めて、格調高い、価値ある法語であると感じました。
法話の中に「只管工夫」「即念工夫」と言う言葉が繰り返し出てきますが、この「只管」「即念」が、私の言葉で云う「気づき」であり、「気づき」が定着し、働いている心の状態と言えます。
クリシュナムルティ風に言えば「分離も、選択も、言葉も無き、気づき」のことであると。
大智老尼の、只管を「目的」「手段」「結果」の三つの段階に応じて説く説き方(指導)は、修行者にとって非常に親切なものであると感じます。
ガンガジの言葉
恐れ | ガンガジとの対話
良い内容です。
『天と地―肉眼で見えないもの』
『天と地―肉眼で見えないもの』 アマンダ レンショー
電子顕微鏡で見たミクロの世界から、地球の衛星写真、太陽系、そして究極のマクロの世界と言えるハッブル・ディープ・フィールドまでを並べた、判型は小さいながらもボリュームたっぷりの写真集。キャプションを読まずにページをめくってみよう。花粉の電子顕微鏡写真は、異世界の惑星のよう。プリオンの蛍光顕微鏡写真は惑星状星雲そっくりだ。逆に、何かの細胞の断面かと思ったら、地球上の川の流れだったりする。後半に掲載された天体写真は、見慣れているはずなのに、まったく別のスケールのものに見えてくる。