気づきの言葉

どこまで本気になって自分の至らなさや愚かさを痛感するか。
まともな人間になる第一の条件である。

……

まことに日に新たに、また日に新たなり(大学)―
これは、人間いかに生きるべきかを教えた最高の言葉である。
今日の私は、すでに昨日の私と同じではない。

……

自分愚かさに気づくと云うことは容易なことではない。
私など一つの出来事について、自分が如何に愚かであったかに気づくのに数ヵ年を要することがある。
その数ヵ年の間、肩肘怒らせて虚勢を張っていた自分が、
いとも哀れに、そして惨めに思われるのである。

……

利他行ができないうちは、一人前の人間と思う勿れ。

……

親は子の、教師は生徒の、夫は妻の、上司は部下の、美点・長所をはっきりと掴まねばならぬ。
どうも私たちには、相手の欠点・短所を意識しすぎる(に目がいく)傾向がある。

覚醒への後押し

「弟子であり本の著者であるジャスティン・オブライエンは、スワミのアメリカでの普及活動を熱心に手伝っていたのですが、あるとき、「私は覚醒したい。そのためにはどんなことでもする覚悟がある」と師に告げました。
 するとまもなく、スワミが主催するヨーガ普及のための組織の評議会に呼び出され、彼の持っている博士号や学位は詐称ではないかと、あらぬ疑いをかけられ、組織の運営業務を一方的にやめさせられ、さらに彼が教授職を勤める大学も彼の経歴に疑惑を抱き、大きなスキャンダルにさらされることになりました。
『僕には名前も、地位も、認識番号もない。築いてきた家はみな取り壊された-学位、地位、名声、オフィス、監督権、職歴。訴えるべきところもない。妻を守ってやることさえできずにいる』
 こうして、プライドも、人を教えることに生き甲斐を感じていた教授職も、さらに、世界は正義が貫いているという信念も、すべてずたずたに打ち壊されて苦悩のどん底に突き落とされる数ヶ月間を経験したというのです。」

「ある日、師(スワミ・ラーマの師)と川べりを歩いていた時のこと、ひとりの男が崇敬を表し言葉をかけてきた。そして覚醒に近づくためにできることは何かと質問した。『三か月嘘をつかないこと』師はそう答えた。いいかい、真実を語れでなく、ただ嘘をつくなと言ったんだ。男は家に戻り、その行を始めた。
 彼は政府の仕事をしていて、そこではある収賄行為がなされていた。彼もそのことを知ってはいたが、関与はしていなかった。翌週オフィスに不意打ちの捜査が入り、全員尋問された。捜査官から収賄について聞かれた時、男は師の言葉を思い出し、洗いざらい話した。捜査官がオフィスの他の昔たちに尋ねると、彼らはその男こそ首謀者だといって罪をなすりつけた。男は起訴された。
 妻は男が捜査官に話したことに激怒した。ただ口をつぐんでいればこんなことにはならなかったのに、そういって責め立てた。男は聖者と川べりで会った時のことを話して聞かせた。『結構ですわ』妻は言った。『そんなに私に恥をかかせたいなら、その聖なるお方のところに行ってください』彼女は離婚を申し入れた。
 友人たちは彼を愚か者だと言ってその窮状を笑った。子どもたちでさえ、自分より妻と暮らすことを選んだ。妻は預金を全部引きだし、夫を拘置所に残したまま去っていった。彼には弁護士を雇う金さえなかった。
 男は自分のおかれている状況を見て、嘘をつかずにいることで、このあとどんなことが起こるのだろうと思った。
 判事の前に連れだされ、彼の側の言い分を尋問された。男はこの『嘘をつかない』という一連のできごとがいかにして始まったのか説明しなければ、という強い衝動にかられた。男の話に息をのんだ判事は、休廷を申しわたし彼を執務室に呼びだした。そこで二人のサドゥ(行者)についてもっと詳しく話すよううながした。それを聞くうち、判事はこの男が出会ったのが自分のグルだったと悟った。それをきっかけに、証拠書類が再度詳しく検討され、いくつか矛盾点が発見された。起訴は取りさげられた。
 男は晴れて自由の身となったが、ひとりきりだった。他にどんなことが起こるのだろうと思った。行の三か月が終わる頃、200万ルピー(およそ2000万円)の遺産を相続したという電報が届いた。するとすかさず妻が連絡をよこし、すべては自分の誤解だったと認めてきた。しかし男はもとの生活に戻るつもりはないと丁重に伝えた。あまりにもたくさんのことが起こったその三か月、男は嘘をつかずに生きることが何をもたらしていくか見たいと思ったんだ」
 このように、覚醒を求めたときには、その人が大切にしているものを、ことごとく奪い去られてしまうようなことが起きたりするようです。名声も、仕事も、お金も、家族さえも、奪われてしまうような。  『ヒマラヤ聖者の教え』から
心の治癒と魂の覚醒

あらゆる努力の目的

質問者:私たちはある修行をしばらくやりましたが、進歩が感じられません。私たちはどうすべきなのでしょうか?
マハラジ:あらゆる努力の目的は、今、人がここで所有していない何かを得ることである。あなた方が達成しようと思っていることは何なのか?
質問者:私たちはあなたのようになりたいのです――つまり、悟りたいのです。
それを聞くと、マハラジはベッドから起き上がって(彼はガンを患っていた)、笑った。
マハラジ:ほら、そこが、あなた方が誤解しているところなんだ。あなたは、自分のことを何かを達成しなければいけない一個の実体で、あなたが思っている私のような実体になることができると考えている。その考えこそ、「束縛」である。一個の実体との一体化をやめること、それ以外に自由はない。あなたは自分を一個の実体で、私のことも一個の実体で、お互いに分離していると見ている。しかし私は、まさに私が自分自身を見るようにあなたを見ている。あなたは私の本質だ。一個の対象物体が、その物体のために解放を求める。これは冗談ではないだろうか? そもそも、対象物体が自由意志をもったり、独立した存在をもったり、束縛されたり、解放されたり、そんなことが可能だろうか?

シンプル道の日々 より

許しの近径

ラメッシ・バルセカールの教えでは、「罪悪感からの解放」など、
「自分のなかの悪感情に対して、更に悪感情を重ねる」「怒りに対して怒る」「嫌悪を持っていることを嫌悪する」と云う、修行者が陥りがちな悪循環・ループによって、現在の事実・自分を観察するに必要なエネルギーが浪費されるのを防ぐ、と云うところに、まず第一のポイントがあるように感じます。
しかし、同時に、この観念は、返す刀で、
他人に対する「怒り、うらみ」を意識の深層の部分から切ってくれる、切除に役立つように思います。

通常、私たちは、たとえば親友との関係で「どうしても困っていいるから助けてくれ、とお金を無心され、かなり迷ったけど、自分の大切に取っておいた貯金を切り崩して、ほとんど貸してあげて、そのときは泣き出さんばかりに感謝され、必ず一年以内には返すから、と言われたのに、結局、一年経っても何の連絡もなく、こちらから連絡取ろうとしても梨のつぶて、何度か催促しているうちに不仲になり、そのうち第三者から、あの人が貴方の悪口言いふらしているよ、と聞かされ、その内容は事実無根の、自己弁護のためのかなり酷いものであった」などという事件とか、「自分の同姓の大親友と自分の奥さん(パートナー)が、実はずっと前から浮気をしていて、自分はまったく何も知らず気づかず、心を許して付き合っていたのだが、それがある切っ掛けで発覚した」とか云う出来事などが起こると、そうとう腹が立ち、こいつ殴ってやろうか、とか、まずは思いますが、瞑想などしている人ならば、どうにか色々な肯定的な考え方(反応系の思考)→反応系アファーメーション や瞑想による気づきなどで、どうにか表面的には、気づき、受け入れ、受容して、ある程度の時間をかけて、「それは自分にとって、起きるべくして起こった良きことだったのだ、甘んじて受け入れよう」と云う認識には至るでしょう。
が、実際には、心の奥底では、その相手に対する「怒り・腹立ち・軽蔑」の気持ちは残余することが多いでしょう。(その場合、主観的な感覚としては「怒り」ではなく「哀れみ」を感じる、などの形で、その怒りはくすぶり続けるでしょう)

この「怒り」の感情の正当性の根拠は、「相手は、そうしない(その行為を選ばない)こともできたのに、そうしなかった」「違う態度・行為をすることもできたのに、あの(最低の)行為をした」と云う人間・世界認識にあると思います。
たとえば、私たちは、虫とか魚とかが、自分の気に入らない、やって欲しくない行動を起こして、それによって自分が被害を蒙ったとしても、虫や魚にそれほど怒りません。
あるいは、今日は天気がいいから、どこかに遊びに行こうと思っていたら、突然、豪雨になった際にも、がっかりして、「あ~あ…」とは思いますが、天候とか地球とかに対して怒ることはしません。
それは、虫や地球の自由意志で、それが起こされたとは考えずに、なるべき必然で、その現象が起こったと理解しているからです。

ラメッシは、すべての人間の行動・言動も、それと同じく「自由な意志、自由な選択」は、どこにも介在していないと説きます。
親友の裏切りも踏み倒しも、そこに本人の何の自由も選択も、自分にとってもっと良い、他の別の行動を選ぶ余地も、存在していないと説きます。

この人間・世界理解の徹底によって速やかに、他人に対する「うらみ・怒り」は解けていくことでしょう。
やるべきことは、このことの徹底した考察と納得です。

「私を傷つけた人々すべてを完全に許します」との「許しの祈り」というものを目にしました。
この祈りを、自身の内面で、言葉通り遂行するには、
おそらくラメッシ的な「自由意志の不在」の認識徹底が必要だろうと思うのです。
そうしないと、怒り・恨みと云う本当の感情の微妙な抑圧となってしまうか、
あるいは、それが「高みからの見下し」と云う形に変形されて、相手との関係に残るのでは、と。

現実・現象の根本的受容、受け入れ、全托、許し、感謝―
それらすべてに「人間の心に対する決定論的理解の徹底」は関わってくるように思います。