アレクサンダー・テクニックのプライマリーコントロ-ルに関して

「プライマリーコントロ-ル」とは、緩やかな自動運動である、とは言えないだろうか。
あるいは、不随意的(勝手に動く)な感覚が弱く、時間的に緩やかな自動運動のことをプライマリーコントロ-ルと呼んでいるとか。
自動運動の構成要素のうち、「不随意的な運動」と云うのが問題なのではなく、(なぜなら、それは、実のところ不随意ではないから、脳の普段と違う部分がメインとなって行っている随意運動だから)
自動運動は、ある種の変性意識とセットになっていること、(自動運動が起こるときには、必ず瞑想のレベル、意識のスイッチが切り替わっていること)そして、その状態で起こる(つまり日常意識ではなかなか起こらない)全体が一つになった運動・現代人の持つ条件づけを脱した動き、プライマリーなモノの顕現にこそ自動運動の価値がある、と考えてます。

目からうろこが落ちたのと

過去の文章のお蔵出しです。
……
> これは私にとっても大きなテーマなのですが、思い込みによる体験と、そうでないものの体験との違いは、どのようにして判断すればいいのでしょう?
同じことを、私の言葉で言えば、「理論の産み出した体験(ある観念に、はまり込むことによって生じた体験/経験)と、理論が抜け落ちたが故に起こった体験とを、どう見分けるか?」という問題なのですが、これでずれてませんか?
別の言い方をすれば、「眼からうろこが落ちたのと、眼にうろこが飛び込んだのと、どう見分けられるか?」という問題です。
もし、ずれてないなら、問題意識を共有できそうです、嬉しいことに。
これは、「私にとっても大きなテーマ」なのです、積年の。
我々は、通常、「理論を介在させず、裸眼で、あるがままに見るとき、世界を最も明晰に、正確に、鮮やかに見てとることができる」という瞑想宗教的通念を疑うことはしないように思います。
しかし、もしかして、人間の目はもともと(生まれたときから)ピンボケで、「理論」という眼鏡をかけなければ、世界はぼんやりとしか見えない、と云うことはないのだろうか?
その眼鏡がコンタクト・レンズ(一生、外しも、手入れもしなくてもいい)になった場合はどうか?
「眼からうろこが落ちた! おお、世界のなんと鮮やかに見えることか!」と言ってるのが、実は新手のレンズが目に飛び込んできただけに過ぎぬ、と云うことはないのか?
> 思い込みによる覚醒というものもあるのでしょうか?
> あるいは覚醒とは、説明する必要もなく、疑いようもないほど圧倒的なもので、「ひょっとしてこれは私の思い込みが創り出した幻想なのでは?」 などといった疑問が発生する余地さえないものなんでしょうか?
本人にとって、「疑いようもないほど圧倒的なもので」「疑問が発生する余地さえない」ほどの、明晰で、強烈な体験であってさえも、自分の観念が作り出した(あるいは、混ざり込んだ)“まがい物”であり得るのが、その手の体験の怖いところだと思います。
しかし、これは、簡単に扱って済ませてしまうことはできぬ問題ですね、難しい問題です。

神秘体験の定義

トーマスとクーパーは神秘体験を次のように定義している。
畏怖の感情、言葉で言い尽くせないという感覚、神ないし宇宙との一体感、時間と環境の知覚の変化、人生の優先順位の組み替えをともなう「わかっている」という感覚。
なるほど…

禅とヴィパッサナー

以前に、どなたかが書かれていた「禅(大乗仏教)」と、「ヴィパッサナー(小乗仏教)」に違いはない、と云う言葉を読んで書いたもの。
いまでも、自分の言いたいことは、これに尽きている、と感じております。
……
>ヴィパッサナー瞑想に対する私の限られた知識からすれば、大乗的な世界観と根本的な違いを生むような、瞑想の方法上の違いは見つからない。
なぜ一方は、あるがままに観たとき「五蘊皆-空」と言い、もう一方は、「五蘊皆-苦」となるのか?
これは一言でいえば、「観察の倍率の違い」が生み出す問題であるでしょう。
以前に書いたことですが、
>ヴィパッサナーって、結局、顕微鏡下の世界の話ですから、その顕微鏡覗いたことのない人間が何言ってもしかたがないな、みたいな感じはあります。
> 眼の前にある紙を、肉眼で見ればつるつるだし、触ればすべすべだし。
> でも、100倍率の顕微鏡で覗けば、でこぼこで穴だらけかもしれない。
>どっちが“あるがまま”の真実で、どっちが妄想かという問題ではないでしょう。
> 肉眼で見れば、つるつるに見えなきゃおかしいし、顕微鏡で覗けば、でこぼこの穴だらけに見えるのが当然。
と云うこと。
実際には、空間的な倍率と云うより、時間的な倍率(動体視力)の違い。
1秒に1個のレベルの観察と、1秒に10~20個のレベルの観察を行っている双方にとって、世界の現れは異なっているのが当然であり、「世界の手触り」に相違が出てくるのも不思議ではない。

信念体系の外部の理解

我々自身の信念体系(教義、思想、理論)を使うことなく、他の信念体系を理解・評価することは不可能なことなのである。
われわれが何かを理解しよう(探求しよう)と試みるとき、そこには必ず、探求の対象自体が、われわれが使用する論理と多少の相違はあっても、基本的には同一の論理に従っているという想定が前提されている。
少なくともわれわれは、そのようになっていてほしいという希望をもっている。
パースの言葉(伊藤邦武編訳『連続性の哲学』,岩波文庫,254頁)

前世療法

だいぶ前に、ネット上のどこかで目にした文章。
上手いこと言うもんだ、と感心して取っていおいたもの。
……
前世療法
今まで受けた心理療法の中でカタルシス度は一位。
「前世=自分の過去のメタファー」、「前世療法=前世イメージ療法」だと思った。
自分で「自分専用の物語」を想像して、自分で感動する感じ。
自分専用だから当然感動する。