パソコンが、常時、アンチウイィルスソフトによって監視されていないと危ないように、私たちの心もまた、「気づき」と云う「アンチ煩悩ソフト」によって監視されていないと、危ない。
新しい対象の下調べをし、買い物ボタンをポチッと押すとき、掲示板で議論するとき、新しいニュースに、とりあえず目を通すとき―
常に、自分の心の動きの動機・本当のところを監視する、引いた目線を持てない限り、インターネットは、果てしの無い自分自身からの逃避の舞台、あるいは危険な遊技場となりかねない。
そして、また、怒り、自惚れ、承認欲求などのウィルスを、気づかぬうちに自分が世間にばら撒き、汚染することにも繋がるだろう。
絶え間なき気づき、絶え間なき注視・監視が必要である。
それを実践するとき、ネット接続は(仕事を持ち、社会の中で暮らす我々にとって)、自己の本性を見るための(心随観の)修行の最高の現場となり得るかも知れない。
人の話を聞く(読む)とき
他人の言葉を読むときには、過去のその人の言動の一貫性や、印象(自分の中にできている、その人のイメージ)と切り離して、「その一言が、今の自分にとって価値あるものか、学びをもたらすものかどうか」だけを見て、その言葉に学ぶこと。
最低の(と思っている)人格が、最高の言葉(活句)を吐いたなら、その言葉だけを受け取ること。
あたかも、最高のグル・師が、自分のために、その言葉を与えてくれたかのように。
常に、人の言葉の、最高の部分だけを見ること、受領すること
「その言だけを見て、その人を見ず」
だれがその発言をしているかを見るのではなく、
ぶつ切れの、その一言一言だけを完結したものとして見る。
自分が話をする(書く)とき
自分が掲示板などで、書き込み・発言をするときは、その言わんとする内容の良し悪しではなく(勿論、書き込みするならば、その内容は、嘘がなく、正しく、多くの方の利益となる最善のものでなければならない)、その書き込みをするにあたって働いている「自分の心の動機・自分を動かしている衝動・欲求」に注意深くあること。
どんな良いことを書いたとしても、それを書いている動機が、自己顕示欲であったり、怒り、腹立ちであったならば、その「善言」は汚染されており、良い結果には繋がらない。
常に、裏に働いている自分の動機を見据えながら、やり取りをすること。
また、何らかの発言をする時は、「この書き込みを、本名で、住所、職業、自分の立場を表示した上で書いたとしても、自分は、この通りのことを書くだろうか?」と自問してから書くと良い。
匿名性の裏に、自分の卑怯で卑劣な心が働いてないか見る。